モマの火星探検記 ~Inspired by High Resolution~
少年社中
吉祥寺シアター(東京都)
2012/08/03 (金) ~ 2012/08/12 (日)公演終了
満足度★★★★
繋がる
宇宙、生命に関する認識に実感のこもった科白が良い。役者の身体能力の高さも見どころだろう。殊にガーシュイン役を演じる役者の動きが格別だ。照明、音響も効果的に使われており、タッパのあるこの劇場の使い方も気に入った。構成に新機軸は見られないが、これはこれで分かり易くてよかろう。適切なリズムのダンスを随所に取り入れ、演じられる所作を用いてロケットの発射場面を表象するなど、演出も冴えを見せる。哲学的な趣を持つラストの科白は、これはこれで、感動を引き起こすに充分な高みに達している。
女魔導士は求めても得られない
空想天象儀
明石スタジオ(東京都)
2012/08/04 (土) ~ 2012/08/06 (月)公演終了
満足度★★★
ちょっと図式的
肝心な所は、二律背反をベースに構築されているが、弁証法も用いる程度には、大人の劇団を目指してほしい。魔王子=核爆弾という発想は面白いが、核はその汚染を含めて考えなければなるまい。その点を考慮に入れれば、人間の制御できる技術で無いことは明かである。そして、その点にこそ、現代の魔が在るのだ。
非実在少女のるてちゃん
笑の内閣
こまばアゴラ劇場(東京都)
2012/08/03 (金) ~ 2012/08/05 (日)公演終了
満足度★★★★
政治と哲学の根底
表現は、基本的にアナーキーな根を持つべきだと思っている。恐らくは、生命そのものが、DNAによる設計図、その適用と環境のマッチングにあるからである。そして、マッチングは試行錯誤そのものであるから。生命が物それ自体であるなら、エントロピーとの関係で、それらは、エネルギー消費の最も少ない、即ち安定する方向に進むはずである。然しながら、生命は、ことほどさように単純ではない。物の物理法則がこのようであるだけで、生命が発生するとは、現在考えられていないのである。
実際、生命の発生段階における分子レベル、或いは、素粒子レベルの、ある条件下での振る舞いについては、まだまだ分からぬことが多い。然しながら、生命を形成する条件は、エントロピーの安定相とカオスの中間にこそ存在することが、恐らく確実である。実際、これらの知見は、生命発生をシミュレートした数々の実験でほぼ証明されている。
一見、演劇とは、何の関係も無いように感じられるかもしれないが、さに非ず。生命が以上のように安定相即ち秩序とカオス即ちアナーキー間にこそ発生源を持つのであれば、その構造自体は、生命維持、再生産に必要なだけの安定性を持つと同時に自らが学習し、進化する際に情況に対応し続けることのできるフレキシビリティーを持たねばならない。これを人間的価値観を表す言葉に変換するならば、自由ということになろう。この文章の最初の一行に書いたように、表現がアナーキーでなければならないのは、生命そのものが、その辺縁で生まれ活動しているからなのである。安定相よりは、カオスに近い辺縁でそれは維持される。
この作品で表現されている事象は、実際に、この国の首都で問題化した事実を基にしているが、首都の長の行っていることは、以上述べたような生命の根本的原理に反する。ということを考えさせる、案外、哲学的、遺伝子生物学的、コンピューターサイエンス的、複雑系的な作品である。従って、ここで、扱われる問題に性が絡むのは必然なのである。
劇作家協会公開講座2012年夏
日本劇作家協会
座・高円寺2(東京都)
2012/08/04 (土) ~ 2012/08/05 (日)公演終了
満足度★★★★
第一部
自分が見たのは一部のみである。然し、日本人作家、アメリカ人作家作品が交互に演じられる構成は、ほぼ、アメリカ上演と同じだという。全般的に、非常に立体感のある、上手なリーディングであったが、やはり、文化の差が出ていると感じられた舞台であった。日本人作家の作品が、どちらかと言えば、内側から発せられていたのに対し、アメリカ人作家の作品は、コンセプトに重きが置かれているように思われる。何れにせよ、初めっから、同質の感情を喚起するような作品群であれば、それは、当に同一文化なのであろうし、不整合を感じる方が、むしろ自然なことであろう。これだけ大きな傷を我が国の人々に与えた核人災である。当然、立場も違えば、感じ方も異なる。それでも、支援をしてくれた人々の心情を我々はどう受け止めるべきか? オスプレイ配備や、TPP、トヨタバッシング、原爆を落とすために、敢えて、戦争遂行に必要不可欠なインフラを原爆投下直前まで破壊せずにいたアメリカ、ABCCによって被爆者をモルモットにしたのもアメリカという国であり、現在、沖縄を中心に基地を展開し、好き放題をやって日本人に迷惑をかけているのも彼らである。無論、個々人レベルでは、良い人も悪い人もいるであろう。だが、アメリカという名がついただけで、素直な見方ができない日本人が多くいることもまた事実であろう。そういう意味では、善意の人々の行為が、アメリカという国家のアリバイ作りに利用されているのではないか、との懸念も残るのだ。
以上のような様々な要因も含めて、観たが、作品自体は、評価すべきものが多かった。評価は、作品の出来だけで下している。
虹色サラウンド
Knocturn
シアター風姿花伝(東京都)
2012/08/04 (土) ~ 2012/08/06 (月)公演終了
満足度★★★
爽やか
男女間の関係を男の馬鹿馬鹿しいパフォーマンスと、高い運動能力、ドタバタで表現しつつも勘所をきちっと押さえ、♂の持つ照れを命がけ(魂がけ)で表現する辺り、爽やかさすら漂う。役者陣の一所懸命な演技も好感が持てる。また、劇中、フルートの生演奏が入るが、これも練習をしっかりやっていることが良く分かるできであった。構成力もあるので、今後の発展が期待できそうだ。一方、日本で芝居をやり続けることのシンドサもバンドや絵画、写真などの表現とパラレルに語りつつ炙り出している点で、問題点を明らかにしつつ、どうするのか、という若い劇団の奮闘が見て取れ、好印象であった。
Nobody is Perfect
劇団ガバメンツ
APOCシアター(東京都)
2012/08/03 (金) ~ 2012/08/05 (日)公演終了
満足度★★★
完全犯罪
パーフェクトに挑戦する話としては、粗すぎる。論理的な緻密さが必要である。それなしには、最後のドンデンも真の意味で活きてこないことが、分からないとしたら、この手の作品を演ずるべきではあるまい。演技も全体的にのっぺりしていて作品に深さを与えることができなかった。例外的に頑張っていたのがまりこ役の女優、彼女の演技には工夫が見て取れた。
点描の絆
東京ストーリーテラー
シアターKASSAI【閉館】(東京都)
2012/08/02 (木) ~ 2012/08/05 (日)公演終了
満足度★★★★
しんみり
舞台美術の品、しんみりさせるシナリオ、子役をやった役者の演技、芸術家の感覚と一般人のそれとの落差。殊に最後の問題に関しては、表現する者は、ずいぶん悩む問題ではあるまいか? 無論、金儲けの手段として、表現者のふりをする人々は含まない。真摯に表現を追求する人々のことである。芸術至上の立場をとるヒトであっても、おそらくは、その根底に常識と自分の世界、或いは世界観とのギャップが存在するであろう。アーティストは、その鋭敏な感覚で、時代を先取りしてしまうので、大方の人々との間に齟齬をきたすのだ。無論、アーティストをリアルタイムで評価しうるディレッタントは存在するが、彼らもまたマイノリティーであることに変わりはない。
ただ、表現する者の、純粋性や拘りを許容するのも、世間である。真に優れた、また真に独創的で同時に本質的な表現は受け入れられる可能性が大である。其処に賭け、それを継承しようとする才能の在り方と世間ずれした相続の権利者との争闘を描いてしんみりさせる作品である。
人間なんてラララのラ
劇団だるま座
アトリエだるま座(東京都)
2012/08/01 (水) ~ 2012/08/10 (金)公演終了
満足度★★★★
抜群のシナリオ
コメディでありながら、深い人間的表現がなされ、シナリオの完成度の高さはぴか一。筋立て、緩急も巧みで飽きさせない。更に、演出もソフィスティケイトされている。舞台も白を上手に生かして、清潔さや無垢を視覚的にアピールしており、心理学的な表現に寄与することによって、全体のトーンを守りつつ、キャラクターのイメージを場所そのもので豊かにしている。音響も実に見事に使っている。役者たちが、もう少し経験を積んで、深い味が出せるようになれば、更に素晴らしい舞台になろう。
少女仮面
劇団俳小
シアターグリーン BIG TREE THEATER(東京都)
2012/08/01 (水) ~ 2012/08/05 (日)公演終了
満足度★★★
身体論
現在行き着いているレベルの身体論からは、やはり古い感じの身体論であった。無論、高が数十年で、身体そのものが、大きく変わったわけではないが、我々の認識は大きく変わった。そのことを如実に感じさせたのである。吉野の大きな存在感に対する、大鶴ののびやかさはかなり良く対比が効いて面白く感じたが、その向こう側まで、現代の我々の認識は、既に行ってしまっているのではないか、と思うのだ。
ここまでがユートピア×トラックメロウ
劇団あおきりみかん×オイスターズ
座・高円寺1(東京都)
2012/08/02 (木) ~ 2012/08/06 (月)公演終了
満足度★★★★
あおきりみかん
自分が見たのは、こちらである。劇中でも説明されることだが、ユートピアは、決して単なる理想郷などではない。むしろ、現実の世界を効果的に批判するために作られた架空の国である。だからと言ってそれが、本当に理想的であるとは限らない。「ユートピア」という作品を書いたトマス・モア自身がかなり管理社会的な描き方をしているのは、現実社会に対するアイロニーもあろうが、更に複雑な理由が隠されているのではないか?
今回、あおきりみかんの描きだすユートピアは、かなり後者に近い。いつも通り、いくつもの仕掛けと様々な人間関係を巧みに拵えられたシチュエイションに仕込み、システマエィックな国家の規則に従いながらも、尚、人々は自分の個人史を、独立国家の決まりとして表明せざるを得ない。その背景にある現実が、半径75cmの独立国家群の争闘の中に表れる。ある国家が、他の国家のテリトリーに入ると、国家、即ちヒトは、他の国家、ヒトを排除するのか、共生するのか。或いは?
【シアターグリーン学生芸術祭vol.6】に捧げる演劇儀式 (ご来場ありがとうございました!!!!!)
宗教劇団ピャー! !
シアターグリーン BASE THEATER(東京都)
2012/07/27 (金) ~ 2012/07/29 (日)公演終了
満足度★★★
若者の悩み
若者とは即ち老人
絶対音感で作ってゆくクラシックの作曲にした所で、その原点を、モーツアルトが定めたわけではない。リルケの詩を若い頃に読んで、自分と同じことを考えている人がいたことに安心した経緯がある。精神世界の末端に位置する者にとって、その位置は、当に老人のそれである。結果、自ら単語の一つすら発明せず、新たな規則、規制や法則に則って生起する世界の秩序を証明したわけでもない。そんな知性が、身の回りの習慣やセオリーにがんじがらめになるのは、必然である。閉鎖系にあることでは、ちょうど、今の日本の閉塞状況のようだ。
一方、若さの持つエネルギーポテンシャルの高さと、彼らの社会的位置が、本来ならば、爆発力で情況に対峙し変容を迫ったはずだが、現下の日本ではそれも望めまい。寧ろ、このような閉塞的情況が、彼らの辺縁系での存在、そして、そのレゾンデートルを規定している。表現者太郎とする彼らは、それ故に、我々の存在の根源に、食、性、眠りを通じて迫ろうとしたのだ。つまり辺縁系からカオスの中へ入り込もうと欲したのである。結果、彼らの体験するカオス的状況内で、辛うじて、詩的な言語を紡ぎだそうとすることにより、また、その尖鋭な感覚によって、境界領域を時々は、掬いあげることに成功している。無論、所謂、演劇論や学校で教えられる行儀のよいノウハウに立てば、いくらでも突っ込みどころはある。然し、演者、スタッフなどの関係者が求めたのは其処ではあるまい。何より、何が、自分達の周りで起こっており、それが、自分達のムーブメントに如何に作用し、自分達はいかなるアクションを起こして対応すれば正しいのかが、分からない。その分からなさ、その展望の無さに対して、いかなるアプローチが可能なのか分からない。それで、信じてもいない儀式というホルダーに自分達を投げ込んで見た、ということではないか? そして、必然的に瓦解した。この点は分かっていたはずであるにも拘らず、諸般の事情を理由に突っ走って、臍が見えてしまった。その責任を誰が取るのか? といった既定の価値観でしか自分達を縛ることができなかった点に、現在の彼らの位置があり、その限界もあるのだ。だが、我ら生き物は、そのようにして、我らの存在領域を広げて来た。実際には、他の多くの生き物との共生を実現することによって。情況に対する適応力を増して来たのだ。正解など無いかも知れぬ。そのような解は在り得る。だが、それが分かれば、他を試せばよいのだ
一つだけ具体例を挙げておこう。現在、ヒトに対応できないことが明らかな事実は、核の塵である。百万年から数百億年という長期にわたれば話は別だが。というような問題を客体化し得た時、ヒトは、自由を得る。その時初めて、ヒトは、ヒトの歴史に新たな1ページを付け加える可能性を持つのである。我々に関わる問題としての核については、以上の説明で明らかなように、合理的な解決が不可能と分かった時点で、その技術は捨て去るのが正しい。といった具合だ。
「物」
日本のプロレス
APOCシアター(東京都)
2012/07/28 (土) ~ 2012/07/29 (日)公演終了
満足度★★★
辺縁系のネガ
objetをobjetとして扱うには、無論、物理的に扱うのが、一番分かり易かろう。だが、あるポテンシャルを越えればobjetは相転移を起こすのが普通である。そこには、カオス、安定した秩序・結晶層、その間の辺縁系とでも呼ぶべき層が存在し、各層ごとの素粒子の振る舞いは変化している。我ら生き物がどの層に属するか、と言えば、辺縁の層である。ここでしか、新陳代謝を含む流動性と組織化が同時に存在しえないからである。物理的な客観ではそうなのだが、生き物が神経や脳を持ち、心を持つようになったら、物理化学特性と、所謂精神の働きは矛盾なく、同時に存在しうるのだろうか? 2つの劇団が、中身を入れ替えたオムニバス形式で演じた「物」。先ずは「中間子論」。
物体相互間に働く物理的な力の影響下、心はどのように振る舞うか? である。他方、海の音にもまがう心音を聞くのが、大好きなホモセクシュアルな主人公は、愛する者皆を殺してしまうが、遺体になった愛人を物としても愛したと言う。実話をもとにしているだけに不気味さを覚える。2編とも、結果的には、物それ自体というよりは、物とそれにまつわる精神の狂い、或いは、アンビヴァレンツを描いていたように思う。
新宿・夏の渦
ピープルシアター
サンモールスタジオ(東京都)
2012/07/25 (水) ~ 2012/07/31 (火)公演終了
満足度★★★★
新宿
若い頃、新宿で毎日を過ごしていた自分には、マイノリティーの被差別状態を描いたこの作品を通して見えてくるのは、新宿という名の街。否、都会そのものである。いわば都会の腸と言ったらよいか。
この劇団の社会性が、ちょっと変わった形で現れた舞台と言えよう。いわば、身体化した街という形だ。
良く、幕が上がったら、そこからは、役者と言う。実際、ミロ役は素晴らしい演技だった。歌舞伎の女形の名優にインタビューアーが、「どうやって女性を演じるのですか」という質問をした話を読んだことがある。問われた役者の答えは、「男を殺すんです」というようなものであった。最近では、男性の中にも女性的なものがあり、女性の中にも男性的なものがある、ということが、諸学問の間でも認められるようになってきたが、俳優というものは、このような離れ業ができるものなのである。実際、自分の目の前で、男性が、なまめかしい女性性を獲得していた。
ピープルシアターに出演する役者は、実力のある者が多い。身体能力の高さも抜群である。女性用の服装、靴のままで、カンフーのような動きをこなす。”おかま達”の置かれた微妙な社会的位置を後ろ姿で演じて見せる。
都市の都市たる所以は、狭い所に多種多様な個性が犇めき合うこと。当然、その人間関係は、非常にセンシブルである。その辺りの呼吸も役者達は、登場人物のキャラクターを活かしながら演じている。
更に、仕掛けがある。舞台と現実が、繋がって仕舞いそうな、新宿の新宿らしさとでも言って良いかも知れぬ演出が施されているのだ。実は、この公演に登場しているのは、役者だけでは無い。本当に新宿のその世界で生き、働いている方々も出演しているのである。観客は、演技者と本物を見分けられるか否か、狭く多様な演劇空間と現実の狭間を自分自身で見極めることすら、求められていると言えよう。
スペーストラベラー ~LOVE is in the Mother Ship!~
スーパーグラップラー
あうるすぽっと(東京都)
2012/07/25 (水) ~ 2012/07/29 (日)公演終了
満足度★★★★
仕掛けが良い
最早、地球には住めなくなったヒトは地球タイプの惑星を求めて宇宙の旅に出る。これは、初の移民船の物語だ。ブラックホールの向こう側には、ホワイトホールがあるということが、最近、科学雑誌の誌面を賑わすが、そういう知識も取り入れながら、物語は進む。指揮統括は、当然、コンピュータである。「2001年宇宙の旅」ではハルがその役を務めたのだが、この宇宙船のコンピュータはマザーマリア。出発当初は、総てが上手く回っていたが、総てのことがそんなに順調にゆくはずもない。
目的の惑星までの所要時間は、10か月と10日。この日数から誰でも想像するのは、ヒトの妊娠期間である。無論、この推論は正しい。複雑系を持ちだすならば、ヒトに限らず、生命の振る舞いと物の振る舞いは、非常に近い関係にあることが、分かってきている。結晶を作るような振る舞いは、素粒子が、原子や陽子、中性子などを形成し、更に生物の基になるアミノ酸や、炭素などの分子、或いはその構造体を作るような振る舞いに似ているし、条件次第では、結晶は崩れて構造体ができたとしてもすぐに壊れてバラバラになり、一定の構造を有することができないカオスの振る舞いをする。生命体は、このカオスと結晶との間の領域、殊に、カオス辺縁部での自己増殖や安定構造を持ちつつ同時に遷移する相互連鎖系を持つことによってカオスと結晶構造の間でバランスを保つのである。このことは、コンピュータサイエンスにおける普遍的プログラムの諸様態にも対応する。
さて、この物語解釈のヒントは与えた。みなさんは、どう解釈するだろうか?
さんさんロード
劇団C2
萬劇場(東京都)
2012/07/25 (水) ~ 2012/07/29 (日)公演終了
満足度★★★
わざとらしさ
作り過ぎてわざとらしさばかりが目立った。その為、総てが表面的になって仕舞っている。また、細部のリアリティーを疎かにしているので、佳境に入った場面でも、観客は白けてイマジネイションに没入できない。折角、大道具はこれだけ立派な物を設えているのに、それが活かされなかった。観客は役者の身体から滲み出すものをこそ、大切にするという事も考えて欲しい。
病んだらおいで
ソラトビヨリst.
新宿シアターモリエール(東京都)
2012/07/26 (木) ~ 2012/07/29 (日)公演終了
満足度★★★
精神の病
元スナックのステージ、カラオケ、カウンターなどをそのまま利用した精神科のクリニック。ここでは、精神科医が患者に当て書きをして、演劇を用いた療法を行っている。役を演ずることで、精神を解放させようとの目論見なのだが。コメディという触れ込みの割には、ギャグの切れがイマイチ。楽屋落ちも多いのではあるまいか。後半はコメディというよりメロドラマになってしまった点も気になる。
カメラ・オブスキュラ
芸術集団れんこんきすた
川崎H&Bシアター(神奈川県)
2012/07/26 (木) ~ 2012/07/29 (日)公演終了
満足度★★★
ふ~ん
自分の前に評価をした方は最高点のようだ。投稿内容は見ていないが、ファンなのであろう。自分は、そこまでの評価はできない。演出レベルで遥かに効果的な演出ができると思うからであるし、しょっぱなで観客を引き込めないようでは、演劇として厳しい状況に置かれると思うからである。いまさら三一致の法則を言う気は更々ないが、演劇界の流れの中で、無視できないのも事実である。そして、演劇が、民衆の物であるならば、縁者は総て、民衆の側に立つべきだと思う。で、れんこんきすたの名称はレコンキスタであると自分は解釈したので、再征服、つまりウエスターンの価値観、正義感をこの劇団は標榜していると解している。もし間違っているならば、その旨、ご連絡頂きたい。
前置きが長くなった。自分jは演出に難があると感じた。理由は上に挙げた通りである。もう少し具体的に言うならば、中盤まで人間を描けているとは感じられなかった。中盤以降は、科白に並々ならぬ才能も感じられたのだが、勿体ない。そう思うのだ。俳優の演技も個々のレベルで評価できる俳優が二人いた。老人役と見えないキャラ役である。前半、自分がマイナス評価をした点については、アンケートに書いたので、ここではふれない。ただ、そこを工夫するだけで評価が一段階上がるのは、確かだと思う。
職業◉寺山修司(1935〜1983/1983〜2012)
重力/Note
STスポット(神奈川県)
2012/07/20 (金) ~ 2012/07/23 (月)公演終了
満足度★★★★
寺山
彼は実に多様な顔を持っていた。歌人、詩人、劇作家、演出家、映画監督、競馬批評家、エッセイスト等々。その多様な現れを、当時、多くの大人は見誤った。キッチュだとか、単なる流行、アングラだとか。だが、この多様性の底にあった彼自身のアイデンティティは、理論武装をされた羞恥心、土俗を恥じた西洋的心身性、日本近代の分裂そのものではなかったのか? そのことを痛烈に意識していた彼は、自らも変容する視点として世の移り変わりを見ていたように思う。
今回、寺山を実際には知らない世代の若手俳優が中心になって、彼の足跡を辿り、模索する中で、彼らが感じ取ったものをデリカシーあふれるタッチで表現して見せた。各々の俳優が寺山の携わった仕事にまつわる器具を持って集合するシーンなどは、在りし日の寺山と天井桟敷を彷彿とさせるものであった。
みんな豚になる-あるいは「蠅の王」-
ワンツーワークス
吉祥寺シアター(東京都)
2012/07/20 (金) ~ 2012/07/26 (木)公演終了
満足度★★★★
蠅
ゴールディングの「蠅の王」を下敷きにしている割には暴力性に乏しい。まあ、シチュエイションも会社に変えられており、登場人物も子供ではなく大人に変えられているので、作品の骨格、柴門が、豚の仮面を被った者から内面を問われるシーンなどが原作からの影響を色濃く伝えたシーンといえようか。
今作品では、暴力は、パワーハラスメントやセクシャルハラスメントに置きかえられて我々の日常に近づいている分、原作にあったストレートで純粋な暴力性は弱まってしまった。その分、インパクトに乏しくなったように思う。自殺者を出すくらいのことは描かれて良かったのではあるまいか? その上での蠅の羽音なら、更に演劇的効果は上がったように思う。
象のいる部屋
劇団恋におちたシェイクスピア
RAFT(東京都)
2012/07/20 (金) ~ 2012/07/22 (日)公演終了
満足度★★★
3.12
3.11の間違いではない。問題は3.12だ。その方が遥かに重大な危機だからだ。3.11規模の地震、津波は、歴史上、何度もその記録が残る体験を我々の祖先はして来ている。然し、マグニチュウドの数値を気象庁独自評価からいきなり説明もなしに学者などが用いてきた評価方式に変えて数値を大きく見せかけるような操作を行い、恰も致し方なかったと言い訳しやすいようにする態度には、誰も納得できまい。評価は、同一基準ですべきである。
更に、データの隠蔽・誤魔化し、説明会でのヤラセ、虚偽証言、政財界、マスコミ、司法への工作など推進派のダーティーな行為は枚挙のいとまもないが、そのような状態を肌に感じたのか、面倒くさがりの作者は感覚的に描いた作品だという。その割には、まずまず、正鵠を衝いていると言えないことはないが、勉強不足は、ラストの余りにも曖昧な終わり方に出ているように思う。ストーリー展開その他では、中々楽しめる作品にはなっている。