満足度★★★★
熱演
タイトルの“幻し”は無論、通常の日本語では誤用である。だからこそ、作・演出の森井 睦氏は、“し”を送ったのだ。それは、この物語に一種の浮力をつけたいが為であったと考える。つまり、日本でありながら、通常の日本ではない、夢見られた国、或いは幻想を纏った日本を描きたかった、ということでもあろうか。
「リア王」で当たりをとった老俳優を演じるのは、ピープルシアターの看板役者、二宮 聡氏。非常に難しい役作りを熱演して見応えがあるのは、流石だ。娘役を演じるのは、これまた、この劇団になくてはならない名花、伊藤 知香さんとコトウ ロレナさん。(追記2013.12.17)
ネタバレBOX
先の原稿で“浮力”という言い方をしたが、深読みを許して貰えるならば、それは、既成日本への死刑宣告ですらあり得よう。実際、今作で描かれるリアは、真の自己たる道化も伴わず、一国の王であるより単に一家族の夫と妻子の関係に矮小化されている。
即ち、老人養護ホームに遺棄されたリアとは、その本質に於いてシェイクスピアのそれとは根本を異にしていると言わねばならない。ここで描かれるリア否リア俳優として名を為した役者の人生は、あくまで、日本の現代史のある時期迄、実際アジア東端の生活として実在した家族の在り様をこそ原点にし、その崩壊を描くに当たって、シェイクスピアを援用しているのだ。
従って、実際この作品で描かれるのは、妻と夫と愛人の三角関係と妻自殺をメルクマールとした娘三人との事後関係だ。末娘と姉二人との父に対する対応の差は、シェイクスピアの原作に近い。
この関係は、然し乍ら、日本と幕末以降不平等通商条約を結んで大儲けをした欧米列強との関係を端的に表してもいるだろう。この不平等を克服しようと追いつき追い越せというスローガンの下に敗戦迄を突っ走った、という側面が確かに、日本近代史の過程にはあったと思えるのである。それは、無論、コンプレックスであるが、自分はそれを単純化した訳語、劣等感で済ませたいとは思わない。寧ろ、複合意識と訳したいのである。この方が、より原語にも近い訳だと考える。
今作は、殆ど一人芝居という形式になっているが、この辺り、シナリオにもう少し工夫が欲しい所だ。自分の美意識レベルを意識化する為の内面的ストラグルを演じて欲しかったのである。それが出来ていない為に、劇団を代表する役者が熱演して尚、隙が出来てしまった。才能ある女優達も殆どファントームとしてしか出て来れない設定では、己の内面を曝け出す演技はおろか、自分自身を演じ切ることもできなかったのではないだろうか?
この点、責を負うべきは、作・演出の森井 睦氏であろう。つか こうへいが、作・演出家として傑出していたのは、役者に合わないと思えば、本公演中であっても口立てで科白を変え、役者にフィットさせていったことだろう。役者本人が、それまで気づいていなかったような本質をつかが掴み取り科白化し得たからこそ、役者にも短時間で科白が入ったのではなかろうか? この辺り、演劇創造の場に於ける日本及び日本人の対人関係の創り方と在日の方々の持つ優しいメンタリティーの差が現れているようにも思う。その意味で今作は、単に演劇作品というレヴェルで観られるべきではなく、作品自体が文明・文化批評の方向性を持っていることに注意すべきである。
満足度★★★★★
マンネリ打破(Bチームを拝見)
「私は大きな樹になります」で始まり、同じ科白で終わるゲームという形式の中で、大筋だけを与えられた役者達が、アドリブで創作して行く、という実験的な手法の芝居だ。
ネタバレBOX
時折、演出家が、ストップを掛け、ダメダシをして、作品が創り変えられて行く。
大枠だけ決めてアドリブで作って行くという方法が、一種の緊張感を持たせるので、観ている側も常に、軽い緊張感を伴い乍ら観劇することになるのも心地良い。更に、隋所に役者達の芸質が見える点、演出家のダメダシが、演出プランに組み込まれてメタ構造化している点、その舞台裏を見せている点でも興味深い。
また、タイトル横の劇団名に“キ上の空論”とあるのは、机と樹或いは木の掛け詞であることは今更指摘するまでもあるまい。この公演では、効果に音楽を一切使っていないが、無論、意識的にである。その代わりと言っては何だが、時間や空間を役者達の発声によって代置してゆくことによって作品のリズムを醸し出している。殊に、3.11直前のシーンでは、暗転し分単位で時を告げるだけの科白の切迫感で、当時の記憶を生々しく再現される。2年前、自分は、川崎のアパートに居たが、あの時の揺れに纏わる有象無象が追体験されるようであったのには、我ながら驚かされた。
ところで、今作は、キ上の空論初の実験公演であるが、作・演出の中島 庸介君は、リジッター企画の主宰者でもあるので、ちゃんと社会との接点を持つ、このような作品を創作し得たのでもあろう。
3.12以降のことで言えば、メルトダウンする前の段階で消防車を用いて、1~3号機の格納容器内にある燃料棒を冷却する為に、注水を試みたことがあったのだが、毎時必要な約10tの水に対して75tもの水を注入し続けたにも拘わらず、メルトダウンが防げなかったことの背景にあったのが、机上の空論(複雑過ぎる配管構造を無視した)であったことを思えば、この作品は、この事実が新聞発表される遥か以前に、この事態を予見していたと見ることもできよう。表現というものの持つ力の一端がここに在る。
(参考までに東京新聞の以下のコーナーで関連記事を読むことが出来る)http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/news/CK2013121402000120.html
満足度★★★
米日関係
映画好きの仲間が集まって制作会社を興した。資本金は500万円。これ迄、何本かは撮ってきたのだが、取り立てて言う程の作品ではない。然るに、今回は、プロデューサー、江崎の祖父で名映画監督だった江崎 幸男の未完作品を撮ろう、ということになったのだった。そこでハリウッドの大物スターと出演契約を結んだのだが、撮影発表の記者会見の時になってドタキャン。(追記2013.12.17)
ネタバレBOX
おまけに分厚い契約書に記された規定では、本人以外の家族などの事情によって出演がキャンセルになった場合、ギャラは全額支払うことになっており、6000万円の金が宙に消えることになった。
これなど、相手がアメリカでなければ悪質な詐欺と突っ込まれてもおかしくない所だろうが、結局、この金をおとなしく支払った上、後に江崎宛てに送られて来た、ラスクと短いレターで「やっぱりいい人だったんだ」などと妙に納得してしまう日本人達の目出度さは、アメリカ人の格好のからかい相手だろう。日本人は、屈辱を感じないで居られるのだろうか?
大量のプルトニウムを抱え続け、更に増殖プロジェクトを放棄しない日本に未来など微塵もないが、こんなことをしているのは、日本の為政者共が、アメリカを殿とし、自らを滅私奉公する臣下と位置付けているからだろう。而も、アメリカが容認しているというより、やらせているのは、核戦略体制下で核戦場となる場合、少なくとも最初の核被災地は、米本土でなく日本という前線基地であるという「事実」に持っていっておく方が、敵に対して優位に立てるからにほかなるまい。実際の核戦争になれば、ミサイルに核弾頭を装着して飛ばすのは、当たり前だし、ミサイルのスピードは、航空機は愚か、戦闘機や爆撃機の比では無い。1分1秒を争うのである。米日関係を軍事的に強化することは、メリットよりデメリットの方が遥かに多くまた大きいと認識すべきである。尖閣の問題にしても、サンフランシスコ条約に中国もソ連も参加することが出来なかった事情を汲むべきであり、平和的交渉によってしか問題は解決しないことを認識すべきであろう。
TPPでも甘利が、重大局面で降りるという芸を披露したが、出来レースっぽくないか?
米日の諸関係を見ていると滅茶苦茶な不均衡を相変わらず、唯々諾々と受け入れてゆく、この植民地官僚と国賊政治屋共の、奴隷というより家畜そのものでしかないメンタリティーが、我々、庶民のではなく、為政者共のメンタリティーであるように思われる。
だから、我々、庶民は、このドロドロの腐りきったヘドロ=自民・公明(この名前も恥ずかしいね)を中心とし、すり寄る野党を、唾棄すべき必要には迫られているが、安倍が強制するように愛する対象としては考えることなど出来ない、とハッキリさせておく必要がある。無論、本来、この国の風土は、温暖で複雑微妙な多くの層を含む、豊かで多様なものであった。その宝をどんどん潰し、永久に回復不可能にする権利も必要もない、未来へ向けての展望がキチンとここに住む我らの判断ででき、実現できるのであるなら、愛など強制されずとも、自ずと誇りも持ち、愛するようにもなろう。それは断じて強制するべきものでもなければ、強制されるべきものでもない。そうではないか?
満足度★★★
内部被曝
雌牛の出産シーンで幕を開けるが、無論、人の言葉は無い。牛の鳴き声だけである。母牛の名はハナコ、擬人化されているので、当然、ハナコの感情は人間に近い。漸く産み落とした母としての喜びを期待してハナコは、子を見た。途端、悲痛な呻きとも悲鳴とも取れる鳴き声を挙げる。産まれた子は、人間の形をしていた。(追記2013.12.17)
ネタバレBOX
所謂、件(KUDAN)である。この森は、毎時18μ㏜の空間線量だ。2か月前迄ハナコらの居た牧場の畜舎は3μ㏜/hであった。ハナコの体には、白い箇所が斑点状に出来ていた。体毛だけが白くなっている場合と皮膚迄そうなっている場合とがあったが、海岸通り近くの大きな構造物で爆発が起き、煙のような物が出て、人間どもが右往左往して以来、これ迄一度も無かったおかしなことが、ハナコたち、牛の体にも現れるようになっていたのである。牧場主の一雄は、有能で人情味のある酪農家だったが、自らもF1人災の為被曝しながら、退避勧告を跳ねのけて牛たちの面倒を見て来た。だが、終に倒れ、病院に担ぎ込まれた。然し、飼っていた牛300頭を、殺処分にさせるのは忍びなく、病院を抜け出して、畜舎を開け放ったのである。牛達はこうして外に出、近くの森へ来た。既に、鳶、犬、猫が森で共同生活を始めていたが、牛達も仲間として暮らすことになったのだった。無論、一雄は、3μ㏜/hの空間線量の出ていた牧場で働いていた為、牛たちを逃がした直後に亡くなった。
牛達の逃げた森は小さく、充分な食物は入手できない。動物達は餌を求めて、ヒトの居た地域へ出掛けて行く。その度にヒトは見付け次第、牛を殺処分していた関係で1年後には、生きている者の数は10分の1に減っていた。若い牛の中には戦おう、という者も出てくる。長老と雖も、若い牛達総てを抑えることは既にできなかった。件は、牛の成長速度と同じ早さで育ち、既に少女に見えたが、森で彼女に会った者達は、彼女がテレパシーを用いて話し掛ける術を持っていることを噂にしていた。彼女は、牛達を救って下さい、と訴えていたのだ。然し、人間共の彼女に対する反応は、妖怪や幽霊に対するそれであった。人々は、彼女に出合うと、筧を乱して逃げ去ったのである。だがある日、核廃棄物の処理に困った人間共は、終に森の木を伐採して、廃棄場を作る為、森の住人狩りを始めた。流石に、人の姿を残す件だけは、人間共も殺すことが出来なかったので、以前、研究用に拉致された若い被曝牛(雄雌各1頭)を除き一雄の牛舎の牛は全滅させられた。森に残された唯一の生命、件の叫びが痛烈である。曰く「何故、私は生まれて来たの?」
内部被曝についての認識が浅い。表現する者が、体制側が垂れ流す情報をそのまま信じてどうするのか? まして、今作は、動物の側に立って、ヒトを見ているという側面が結構出されている作品ではないか。だったら、尚のこと、この点は、キチンとしなければなるまい。チェルノブイリの被爆者に関しても、IAEAとWHOのデータは共通している。これは、WHOとIAEAの間に結ばれた協定の為であるが、背景にあるのは、露骨な力関係によって事実が捻じ曲げられている事態である。WHOは単に、国連の一機関に過ぎないが、IAEAのバックには安保理がついているという差である。最低限、この程度のことはチェックしておくべきである。
満足度★★★
この植民地のかたち
政府は軍事目的で人間改造研究をしていたが、開発に成功したウィルスの一部がラボから漏れる事故が起きた。緊急事態警報が鳴らされ、主要スタッフ協議の結果、事故が影響を及ぼさない可能性を選択、隠蔽してしまう。間もなく、20歳以下の若者に風邪に似た症状が蔓延、予後彼らはエスパーになっていた。(追記2013.12.17)
ネタバレBOX
個々の能力、力量は個体差があって一様ではないものの、テレパシー、サイコキネシス、テレポーテーション、予知等の能力を備えるに至った。その結果、エスパー達は、苛め、差別等の他、収容されれば、モルモットとして実験材料にされるなど被差別者が蒙る総ての苦悩を背負わされていた。
ミュータントでもある彼らの中に反逆の狼煙が上がるのは必然であった。彼らを纏め、自分達が、権力を握る社会建設の為に、現政治体制を転覆しようとする勢力が現れた。彼らは自らをアシュラと呼んだ。そのウィルスの形が、阿修羅像に似ていたからだと言われる。
無論、現体制も黙っていない。当然の如く、特殊部隊を投入、アシュラ狩りに集中した。政権側には、戦闘能力の高さや、先端技術のプロ、対特殊能力保持者に対抗し得る能力を持つと考えられる者が集められ、チームを組んだ。この中に、エスパーになった恋人を持つ者も含まれていた。恋人同士が敵になったのである。だが、この設定はもっと、突き放した視点から描かれるべきであっただろう。
恋人たちの恋心を無残に蹴散らしてゆくような現実のシリアスなレベルが避けて描かれている点で、作品が、センチメンタルになっていることが、劇的効果を半減させている。
3.12以降の与党の動きを見ても明かなように、植民地としてしか機能していない我が「国」は、緊急時には、兎に角、必要な情報を隠蔽することに走る。「殿」であるアメリカが、何と指示するか、無能な彼らには、対応しかねるからである。結果、守るべき国民は見捨てられ、見捨てられたことについても頬っ冠りされ、気付いた国民から追及を受ける場合は、司法が、それを棄却して、遂には、責任を問われることの無いよう原告が死に絶え、追及者が居なくなるまで放置する。それが、植民地保守政権、司法の役割であり、現在、秘密保護法だなどと、「1984年」に出て来そうな特殊変態思考方法のような言い方(完全な情報操作)がまかり通る。因みにこの法を内容に沿って正しく言いなおすのであれば、国民に不可欠な正しい情報を永遠に葬り去る、”必要情報隠蔽法”なのである。内容に沿った正しい呼び方を広めたいものだ。
満足度★★★★★
詩的・知的作品群
ヒトは、その実存に於いて必ず宙吊りである。過去と未来の間に、あちらとそちらの間に、そして彼らとあなた達の間に。この日常の陥穽のような状態こそが、実存の裸形に近い。だから、ヒトは、通常それを見て、見ぬふりをしている。
ネタバレBOX
そのようなヒトの在り様を三編の小品でオムニバス形式に描いた作品群だが、その詩的感性、人間存在の本質を、手堅く、自然に提出する手際の良さが光る。更に日常とはいえ、其々、層の異なる、例えてみれば位相数学を詩に代入したような明晰さと、抑えられてはいるが知性の煌めきが、作品に適度な緊張感とそれゆえのバランスを保たせている。
また、三編とも短編である為、話の展開の仕方が頗る重要になるわけだが、その辺りの構成力も抜群なのは言う迄もない。一編一編の内部でもそうなのだが、全体の構成も良く考えられている。本当にありきたりに見えるシチュエイションで始まる第一話、サスペンス要素の強くなる第二話、そして社会の最小単位と通常考えられる家族の中に起こるトラウマの深刻さを抉る第三話。人称で言うと、一話は二人称の物語、二話は三人称の物語、そして三話は一人称の物語で、演劇を観に来る観客の日常に近い所から入り、昼間働く生活に対応した二話が続き、次に家族という単位で、己を振り返る構造になっているのだ。
見事である。そして、これら三編の其々に、矢張り適確な小物やイマージュが、宙吊りの登場人物達の振り子の支点のような作用を及ぼしている点も見逃すわけにはゆくまい。
これだけの要素を巧みで知的な演出と気の利いた音響、抑え気味で効果的な照明、矢張り、会場のサイズに合わせて抑えた丁寧な科白回しと演技とで、ひたひたと観る者に迫る舞台であった。
満足度★★★★★
秘密保護法成立の日本にぴったり
流石、名作! 憲法違反の悪法、秘密保護法は、自民の狂犬、安倍らの目論見通り、強行採決という形で、形式上成立した。この作品の背景にあったものは、無論、ルーマニアの極右宗教組織、鉄衛団である。(ネタバレ追記2013.12.10)
ネタバレBOX
原作の翻訳をそのまま、上演すると2時間を超える作品だが、Egofilterの演出家は、イヨネスコの主張を活かしつつ、筋の展開を入れ替えたり、割愛したりして、スッキリ、クッキリ現代を生きる我々の皮膚感覚にフィットしたものに創り直している。非常にラフな言い方になるが、不条理演劇の特徴を短い単語で表すならば、それは可塑性と言うことになりはすまいか? 今作の眼目は、マジョリティーVSマイノリティーと、その移行過程でのメンタリティーの変化である。それが、表現されていれば、あとは、いじれる。乱暴な言い方になるが、そういうことだ。
ベケットの「ゴドーを待ちながら」についても、それは言えよう。待っている間 の二人の会話に例えば、特定秘密保護法の話を入れても構わないし、米日の主従関係を入れても作品のバックボーンに変化は無いのである。
因みに緑という単語が何回も現れるのは、鉄衛軍の制服のカラーを表しているのであり、犀への変身が黒で表されているのは、単に犀のグレイの肌を表すより寧ろ、枢軸同盟の仲間であったイタリアの右翼民兵組織、黒シャツ隊を暗示しているように思われる。
つまり、今作のアップデイトな読みとしては、秘密保護法が衆参共に強行採決され、反動そのものである最高裁ですら、違憲状態を認めざるを得なかった選挙(それも不正があったとの内部告発がネット上に出回った)で“選ばれた”議員”達が、民意を無視し、アメリカの圧力に唯唯諾諾と従った官僚、政治屋、多くのマスメディア、財界はもとより、司法等々と共に、これから齎すであろう世の中を、過去の極右宗教組織、極右民兵らと重ね合わせて透かし見ることができるのである。
実際、舞台を拝見しながら、特定秘密保護法と名付けられた違憲法が、アメリカにすり寄るのが大好きな駐米日本大使や駐英日本大使以下の外務官僚、TPPどころか、自動車で揉めた時ですら、何らキチンと物の言えなかった現経済産業省官僚主導の下、狂犬・国賊・嘘吐きの安倍、詭弁国賊、石破、菅、佐藤等々らの手で、強行採決された現況を見、即刻、罷免を要望すべきだと思った次第である。法律に詳しい方々、これが実現できるかできないか検討して頂ければ有り難い。(まだ法執行までには、日にちが多少ある。現時点では共謀罪は適用されないかもしれぬし)
満足度★★★
日本的
幽けきもの・ことの息吹を感じたが、そのことが、どれほどの意味を持ち得るかについては、社会性をもっと持たせて描いて欲しい。Bキャストを拝見。
ネタバレBOX
赤 レスラーの墓と名付けられた作品だが、赤は無論、血の赤で、真っ暗な中、一戦を終えた後の男と女の痴話噺から始まる。真っ暗な中で、二戦目に挑もうとする男、一度着替えてシャワーを浴びたい女。でもその前に下着をつけたいのだが、真っ暗な中で中々見付からない。男は灯りを点けて探せばいい、と言うが、女は恥ずかしい、と暗い中で探しているが、男は女を求める。そうこうしているうちに、女は、痛いと言いだす。自分の腹に刃物を突き立てたのだ。真っ赤な血が流れ、シーツも床も血で覆われてゆく。女が自殺する原因として考えられるのは、男が、この女以外にも、過去関係を持っていた、ことを男の言葉の端に見付けたからだが、今時、その程度のことで死に急ぐ女など居る訳が無い。ましてや、其処迄他人を信じ、惚れる女も居まい。
男はその後、改めて自分は殺人を犯していないと言う。但し、遺体遺棄は認めている。真っ赤なキャリーバックに遺体を詰め、ダムに捨てた、と言うのである。地獄からの審問官か、警察は、彼の罪或いは証言を立証しようとするが。
いつの間にか、彼は、血の池地獄に落ちる。そこには、女が居て、男は女の遺体以外に男の死体も発見されたと告げられるが、その話が脈絡を持って完結するわけではない。総てがこのように曖昧模糊とした状態で、脈絡なく繋がれてゆく。これも闇のせいだとでも言うかのように。まあ、その後、邯鄲の話に通じる蜘蛛の糸の話に似せた話が出てきて、女は、男に自分の指を選ばせるが、それは、誘導されていて、結局は小指と決まっているのだ。例の赤い糸である。男が小指を掴むと、それは捥げて、女は小指を追い掛けて血の池の底深く潜ってゆき、いつの間にか二人は胎児になっている。それも双子で、どうやら良い所の子という設定である。双子のうち1人は死ななければならない、ということになっている。意識のよりはっきりした方が、先に世に出ることを選ぶが、逆にこの子が殺されることになる。
白 見知らぬ、花が第2話だ。蜘蛛と病人のダイアローグだが、病人は蜘蛛を花に見立てて、美しいとおだて恋愛感情の如きものを芽生えさせた上で花弁占いを始める。八枚の花弁を好きから始めれば、最後は嫌いになるのは理の当然。然も実際に抜かれるのは、花弁ではなく、蜘蛛の足である。が、蜘蛛は、おだてられ、恋愛感情に似たものまで背負わされてすっかり病人の虜である。そうしておいて、蜘蛛の感情がマックスに達した所で、病人は、保養所を去るが、捨て台詞を残してゆく。曰く、蜘蛛は嫌い、と。厭らしいサディズムだ。
青 クドリャフカ 第3話は宇宙飛行に出掛ける実験動物の話だ。様々なシチュウエイションが設えられている。火災発生、酸素途絶、Gの変動による不可測の事態等々、また無重力状態で食事を摂る実験なども。ヒトが実際に宇宙へ出て行く前に多くの動物たちの命で試されてきたのである。人々はこの事実について考えたことがあっただろうか? このようにとれば無論、レクイエムと読めないことはない。然し、作家の傾向から言えば、サディスム、マゾヒズムの傾向と見た方がより実像に近いかも知れない。だが、こんなことを書いたらサドに失礼だろうか? 少なくともマルキ・ド・サドには、アンチクリストとして自らを措定し、悪を以て神と対峙しようとした一種の爽快感さえ漂うが、今作に現れるサディスティックな傾向は、苛めの陰湿さと矮小さだけではある。その点が、如何にも日本的と言えようが。
満足度★★★
キャピキャピばかりではないぞ
シナリオは基本を押さえてしっかりしている。思春期の高校生女子が、己に目覚め、母との葛藤を通し自立して行く物語。
興味深いのは、女性の作品らしく徹底的に敵対することは避けて通っていることである。良いか悪いかの判断は兎も角、現実では、決定的な衝突は避けようとする多くの女性の現実処理方法を反映していると言えよう。
コラボということで、ミュージッシャンの生ステージも見ることが出来る。もともと、Milkywayは、ライブハウスなのだ。
満足度★★★★★
細かい所まで矛盾のないシナリオ
移民国家、アメリカの実情を良く理解した作家による見事なシナリオ、演出。無論、演技も良い。(追記、2013.12.9ネタバレには、本編と直接は関係ないアメリカという国と今問題になっていることなどとの関係もあり)
ネタバレBOX
物語は、ボストンに住むユダヤ系アメリカ人の話である。レ二ー(玩具屋の長男)は、30$を貸した相手に返済を断られたばかりでなく、力づくで相手の「借りていない」という主張を飲まされてしまった。だが、彼にも意地がある。借りた相手をバットで叩きのめし、街を牛耳る連中に唯者でないことを悟らせる。その酒場はアイルランド系の実力者の息が掛かった店だったが、彼は、組織に借金をしている人々からの回収役としてメキメキ頭角を現し、トップのニールにも気に入られる。然し彼には、一つだけ気掛かりがあった。父が経営する玩具屋には、秘密の部屋があり、そこで阿片を保管していることであった。弟のフィルはしっかり者で近いうちに店を継ぐことになるだろう。賢い弟は、そろそろ、秘密に勘づく年頃になる。弟が継ぐ時には、その店を堅気のものにして継がせたい。これが、兄の切なる思いであった。そこで組織のボス、ニールに弟が継ぐ前に倉庫を綺麗にして欲しいと頼み込むが、ニールは頑として認めない。他のことなら何でも聞き入れてくれ、甥のテディーより立ててくれている、何より自分の後継者と目して接してくれているのに、これだけは拒むのであった。その時は、一旦、話を引っ込めたレ二ーだったが、諦めたわけでは無かった。
僅か1年で組織の一切をボス代行として仕切るようになった後、レ二ーは敵対するイタリア系マフィアのカルロに、組織の取引日、集金日、拠点などの秘密を流そうとする。然し、カルロもお人好しではないから、そんなに簡単にレ二ーを信用する訳もない。ところで、カルロの腹心レンツオは、カルロに内緒の取引をしていた。カルロのボディーガードでもあり、殺し屋でもあるカレンダーにその事を指摘されると、互いに拳銃を抜いた睨み合いになる。この間に入ったのが、レ二ーであった。彼は弁舌だけで、二人に銃を下ろさせ、レンツオが銃を下ろした瞬間を狙って顳を撃つ。初めての殺人であった。カルロは、レ二ーを信用する。こうしてアイルランド系組織を潰したが、玩具屋の倉庫は手つかずだった。本当のボスは、父、イブラヒムだったのだ。為に、ニールは、頑として訴えを認めなかったのである。何故、父がそんなことをしたかと言えば、ユダヤ系移民として彼がアメリカに渡り、母と結婚すると、母は、村八分にされ、通りを歩けば石を投げつけられるようになった。そんな母を危険から守る為、街の不良を集めて束ねた。子も生まれた。ますます、責任は重い。ちっぽけな玩具屋の収入だけでは、家族を養ってゆくことはできない。それで、裏ではニールと組み、裏社会のボスとして家族を守って来たのである。だが其処までの事情を知らなかったとはいえ、レ二ーは組織を潰した。その裏切りは、組織のボスとして看過できない。そこで、親子が撃ち合うことになった。レ二ーは死に、イブラヒムは失踪した。フィルは孤児院へ預けられうことになった。
かなり面白く観た舞台でも、レビューを書きながら再考してみると、細かい矛盾や牽強付会を見付けることが多いものだが、この作品には、現時点でそれはない。原因は、アメリカという国を深い所で理解した作家が書いているということだ。タランティーノファンということだから、ディープなアメリカ理解ということだろう。少なくとも、アメリカというならず者国家の本質を良く衝いている。ちょっと脇道に逸れて恐縮だが、ピルグリムファーザーズなどと偉そうなことを抜かして、要するに命の恩人達を騙し尽くし、殺し尽くし、奪い尽した訳ではないか? こういう連中を下司というのだ。それを意識しているが故にその後は、嘘をつき続けて自分達の罪を隠蔽している。今のイスラエルのシオニスト達と基本的に同じである。ブッシュ(息子)がならず者国家などと得意になってほざいていたが、言った国そのものが、世界最悪のならず者国家であることは、アメリカの歴史こそが証明しているのである。(脇道にそれ序に、興味のある方は、先もお読み頂きたい。)
ネイティブアメリカンの土地・自然に関する考え方が私有で無かったことを利用して、自分達の占有などと勝手なことを言い始め、武力で片をつける。それが現代迄続くアメリカの本質である。
話題のTPP自体、本来、チリ、ニュージーランド、ブルネイ、シンガポールのような経済規模の小さな国同士が協力し合って加盟国間の関税を撤廃し、知的財産、政府調達なども協力して、大国が支配するグローバル市場に持ち堪えようと始めたものだ。そこに、海洋国家というごり押しで乗り込んだのがアメリカ、イギリス連邦のオーストラリアなどである。この時から、TPPは、性質を根本的に変質させ、アメリカを中心とする大国の刈り場となった。(因みに甘利 明のTPP閣僚会議欠席も、TPP失敗への布石ではないか、と自分は疑っている)
もう一つ。秘密保護法は、このようなアメリカの世界戦略の中で自衛隊並びに日本人を根本的に彼らの家畜とし、日本の土地を不沈空母と化して、自らの世界支配の道具にする為の法であるということに、何故、当の日本人が気付かないのか? それとも、太平洋戦争で負けたから、今度は、アメリカを殿としただけの話か? 官僚共はそういうことかも知れぬが、我々、民衆はそうではない。うぬらがそうしたいなら、うぬらだけでやれ、我らのことに構うな! また、我らに構わないのなら税等盗るな。それは、関係が無いということなのだから、税を掛けること自体が犯罪である。賢いハズの官僚方にはおわかり頂けるであろう。土台、公僕であるはずのうぬら、主人を間違えるなど以ての外である! 切腹申しつけるぞ! 駐米日本国大使、駐英日本国大使、並びに外務省事務次官以下、外務官僚ども、履き違えるな!
そも、資本主義はその根本に於いて総てを金という交換価値に従属させる。その点で大きな間違いを犯したのだ。即ち、総てが売り物でしかない、ということになってしまうではないか。それは、間違いである。我らは、単に、自然から借り受けているに過ぎない。総ての元素を我らが作ったわけでもなければ、我らが、総ての元素に製造者責任を負うべきものでもない。我らが負うべき製造責任は、我らが作り出した元素と加工して人工的に作り上げた物に対してだけだ。価値については、基本的に自然に任せよ。それが、我ら彼らの子としての知恵である。自然は、彼らを破戒する為に、我らを生じさせたのではあるまい。この原理が分からなければ、近い将来、我らは彼らによって滅ぼされるであろう。それとも、滅ぼされる迄、理解できない愚かな生き物でしか無い、ということか? だったら、早く滅びてしまうが良い。他の生き物を殺し尽くす前に。生き物のDNAに、我らが作り出した物によって影響を与えるようなものを野放しにしておくべきではない。農薬なども毒性の少ないものに変えるべきである。その為に、多少、作物の被害が増えようとも、更に害が少なく、効果のあるものを開発すべく努力すべきである。もし、害と効果のバランスで効果の方を犠牲にしなければならぬのであれば、効果を犠牲にすべきであろう。
核に関しては、総ての核が生命に対する悪であることを肝に命ずるべきである。核兵器は無論のこと兵器以外の原発も動力としての原子炉も総ての核は、生命に対して根本的な悪以外の何物でもないことは、多少、物理の知識があれば、誰にでも明らかなことだ。人々よ、目を覚ませ!
満足度★★★
修飾過多
ご存じ、ピノキオの天幕旅団版だが、コオロギが狂言廻しを務める。
ネタバレBOX
然し、シナリオに書かれた説明文は、矢鱈に修飾語が多く、それで詩的イメージを喚起しようとの意図は分かるのだが、逆効果である。何故なら、修飾語ほど腐り易い言葉は無いからである。詩は、最も高度な言語表現である以上、この程度の事に気付かないのは拙かろう。形容詞の使い方を本当に豊かにしたいのであれば、Baudelaire”Les Fleurs du Mal”がお薦めだが、無論、原文で読まなければ意味は無い。
また、矛盾語法も多用されているが、矛盾語法を用いなければならないような必然性が弱い為、説得力に欠ける。
満足度★★★★
日本版「スクープ」
シナリオに斬新さはないものの、手際良く纏めている。また、現在、国会は秘密法案攻防の最終局面にある。世界の嘘を見抜いてやろうとの気概は、評価すべきである。
ニュース番組“報道チェイス”の明野は、トップ屋並みのスクープハンターだ。ジャーナリストに不可欠な好奇心、反権力思考、強い正義感を持つが故に、これまで多くのスクープをものにし、No.1 記者となった。
(ネタバレ追記2013.12.6)
ネタバレBOX
今回彼は、政治献金絡みの取材を続けるうちに保守政党、警察、ヤクザの癒着に気付きこれを暴く過程で、襲われたりして来た。それでも怯まぬ明野に対し、秘密を暴かれたくない勢力は、妹、菜々を誘拐、彼女を返す交換条件にガセネタを放映させる。
無論、ガセは直ぐバレ、局は大騒動になるが、明野は辞表を提出。1人、妹救出に向かうが。持病の心臓の発作に悩まされ乍ら、辿りついた先には、犯人達の乗った黒い車があった。が、実行犯2人の弟分、健司が菜々の目隠しを外してしまった為に、犯人達は顔を見られた。当然のことながら、素直に帰す訳もない。兄貴分の須藤が彼女を殺そうとした時、健司は何とかこれを思いとどまって貰った上、シャブ漬けにされそうな所も救出する。犯人グループは、菜々の履き物やマフラーなどを外させて、遺留品として適当な場所に捨てた上、犯人としてシャブ中の男を逮捕させた。シャブ中の男はあっさり自白。それで事件は幕を引いた。然し、菜々の遺体は発見されずじまいで3年が過ぎた。
明野は“報道チェイス”を引いた後、美雪という女性カメラマンと組んで、街探訪のライターをやっていたが、偶々渋谷で菜々の姿を見付け、事件を洗い直すことにした。早速、古巣の“報道チェイス”へ出向き、旧友らと再会、協力を要請する。
報道チェイスグループに、熱血刑事の増田、女性刑事だが、頗る優秀な頭脳を持ち、正義を貫こうとする三条らも協力。真犯人を挙げる所迄行くが、警察内部には、誘拐犯のみならず、上部組織とつるんでいる刑事が居た。現場叩き上げの岡島である。彼は、須藤にナイフを持たせ、軽く刺させる演技をさせる。その後、逃がす約束でである。だが、この芝居、増田が飛び込んでくるのを計算の上であった。丁度、須藤が岡島を襲った瞬間、増田が、取調室に入って来て拳銃を発射。須藤を撃った。その後、未だ、致命傷を負った訳でもない須藤を殺したのは、岡島である。そして、殺害を増田の銃撃のせいにした。警察は、押収した薬物を彼らに流し、捌かせて上納金を上部組織や、政治家に納めさせていたのだ。警察は無論、彼らに流す段階で利ザヤを稼いでいる。
この時点では、健司と菜々はつるんで逃げていた。だが、健司も捕まり、菜々は、兄の下に戻ることになった。
ところで明野は、現在、美雪と付き合っているが、美雪の前の彼氏は、報道チェイスの後輩、朝井であった。彼らは別れた訳ではない。朝井が、轢き逃げに遭って亡くなった為、彼を失っていたのである。そして、轢き逃げをしたのは、何と明野自身、その時は気が動転し、人を撥ねた意識も封じて妹救出に向かったのに、結局は犯人に巻かれた上、ガードレールに衝突して入院した落ちまでついたこともあって、記憶を封印していたのだった。まだある。自分の心臓移植手術用の心臓を提供してくれたのは、朝井だった。
明野は真に反省し、罪を償おうとする。彼が、罪を背負って生きて行く覚悟を固めると、場面転換があり、明野が明日を担う方向を見せて幕。
満足度★★★
Bar公演
Barでの公演ということもあり、軽めの色モノというチョイスで対応している。序盤、従業員のイシザカが、アーティストという言葉やアーティストを標榜する人々に難癖をつけるシーンがあるが、それは彼のコンプレックスの為せるワザとみて良かろう。閑話休題。
ネタバレBOX
生涯の伴侶が欲しい、女刑事、トドロキは、かつて感じの良い上司に良く連れて来て貰ったこのバーで、是非生涯の伴侶を決めたいと考えて店に顔を出しているのだが、連れて来る客悉くの見合いに失敗。着信拒否までされる有り様。業を煮やしたイシザカが、サジェスチョンをした。バツ一の店長も上手に彼女をフォローする。イシザカは、男をおだてる五カ条として“さしすせそ”を教え特訓する。さは、流石、しは、知らなかった、すは、凄い、せは、先輩だから、そは、そうなんだ。トドロキはイシザカを師と仰ぎ、特訓を重ねて刑事らしさを隠すこと、女らしさを演ずることに格段の進歩を示した。
腕を挙上げた彼女は、彼女に合いそうな見合い相手を探して紹介してくれる仲介者を立て、いつものバーに来ていたが、仕事疲れから寝てしまう。その間に、仲介者からの電話が彼女の携帯に入った。だが、起きない彼女の代わりに電話に出たのは、イシザカだった。仲介人の舌足らずな表現にむかっ腹を立てたイシズカは、相手を怒らせてしまい、2度と、お見合い相手の紹介はしないと言われてしまった。
イシズカが、こんなにトドロキの世話を焼くには無論、訳がある。「麗しのサブリナ」よろしく彼は、トドロキに心惹かれているのである。一方、以上の経緯で破談となった今回の見合いの直後、トドロキの携帯には電話が入る。以前、知り合った男性からデートの申し込みであった。捨てる神あれば拾う神あり。
芝居自体は悪くない。然し、客との距離の取り方は、自分には馴染みのないものであった。Bar公演ということを念頭に入れたことによって評価は星3つ。
満足度★★★★
捉え難いものを良いシナリオに落とした
精神科医が進行役を務めて物語が進展する。背景には、矢張りグローバリエーションの進展で影響を受け、呻吟する韓国庶民の姿が透けて見える。しょっぱな、医師の回想に出てくる同窓会の挿話は示唆的である。友人の一人が「株をやって儲けた」と話した時のこと。医師は、「それで、幸せ?」と問う。友人応えて曰く「またやって儲けようと思う」と応じたが、医師は再び「それで、幸せ?」と問い掛けた。友人は「喧嘩を売っているのか」と医師にアッパーカットを放った。
ネタバレBOX
自分は、この挿話に以下のような感想を持った。デイ・トレーダーなどが話題になったことからも察しがつくように、株の世界は浮き沈みが激しい。だから、皆、生活の総てを株価の上下に繋げて考えるようになる。1円、2円(韓国ならウォンだ)の上下で一喜一憂する生活を強いられるのだ。儲かれば、この緊張感の中ではち切れそうになったストレスを派手な遊びで発散しようとする。その辺りの生活が透けて見えるようなやり取りではないか?
一方、このような状況の中で、主人公は福祉の勉強をし、他人の為になりたいと生きてきた。然し、人生は中々思うようにならない。結局働いていた組織は解体し、2年間、失業の憂き目も見て、漸く就職したのが、現在の会社だったので、最初は仕事をすることができるだけでも楽しかった。が、仕事に慣れるにつれ、様々なことを考えるようになり、あまつさえ、自分のやりたかった仕事とは無関係な仕事に就いているのではないか、との思いは、彼を追い詰めていった。終に、彼は対人脅迫症に因る主体性喪失症に陥ってしまう。この病は、自分が、自分の根拠にしていた拠り所を失くし、自分が何者であるかを見失ってしまうことによって、他人との対応が必要とされる時に、自分の不如意を見透かされる恐怖から、口ごもったり、対話がスムースに行かなくなったり、酷い場合には、言葉を失ったりする症例である。思い余って、彼は、精神科の医師に相談したのであるが、医師は、彼に「自分の本当にしたいことは何なのかを考えてみて下さい」と告げると共に「妻に悩みを打ち明けるよう」に説くが、彼は、何れも実行できず、症状は悪化の一途を辿った。
若干、噛んだりした役者がいたので星は4つにしたが、いいシナリオで、全体に作りが良い。舞台美術などは、金を掛けられないので、豪華では無論ない。それに、ちょっと、雑な絵柄ではある。然し、本質とは関係ないので、これ以上は触れない。大切なことは、本質で何処まで勝負しているかだ。この点について、自分の評価は5点である。とても大切でデリケートであるが故に見え難い問題を良く形象化した。これからも精進を重ねて、更に、良い舞台を作って頂きたい。内容は、現在公演中なので、ここまでにしておくが、お薦めの舞台だ。
だが、若干、噛んだ場面があったことと、雑に感じられた舞台美術でマイナスを入れると総合評価は4.だが、心に残る作品である。
満足度★★★★
フラクタルな音
今回は、演者の演じたことについてより、拝見して感じたことをネタバレに書いた。
ネタバレBOX
天才をどう定義するかについては、様々な見解があるだろうが、矢張り、以下のように定義したい。即ち、己の可能性を最大限に引き出す人のこと。他者から見ると、その人は自由奔放、時に奇矯な行動を取る変人に見えるかも知れないが、そうではない。また、他人を大切にしていないわけでもない。唯、他人を大切にする為には、先ず、己を大切に出来なければなるまい。
更に、ヒトはそれ自体としては、その皮膚1枚を超えることができない存在であれば、己の可能性を最大限生きることによってのみ、皮膚1枚越えられぬ己の現実的他者到達可能性としては、意志を伝播することによってのみということになろう。多くの者が勘違いする、子を為すことによってというのは、己の実現ではない。DNAレベルでは半分であるし、その半分も、己の生きた関係、時空と同じ条件の中で生きない以上、己の再生産であることなどあり得ない。クローンにしても同じことだ。全く同じ時空と関係を持つ訳ではないのだから。
サティの音楽の持つ晒された白骨のような、不思議な感覚は、そして安らぎは、恐らく宇宙の構造的寂しさから来ている。即ち、フラクタルな音楽なのだ。本来、絶対零度であるはずの宇宙空間が、ビッグバンの名残と考えられている等方背景輻射によって、僅かな暖かさを持つように、サティの音楽にも固有の暖かさと、宇宙構造に通じる独自の規則性があるのではないだろうか? それが、19世紀末から、20世紀初頭の段階では、まだまだ、人々の観念に明確なイマージュを結ぶに至らなかったということではないだろうか? 一方、サティの音楽が、徹底的な個人主義の伝統を持つフランスで花開いたのは、偶然ではあるまい。個人が、己の持つフラクタル構造に気付き、その脈絡に則って作品を創作する時、作品の構成するミクロコスモスは、途轍もなく巨大なマクロコスモスに照応し、以て、絶対零度であったハズの宇宙空間に幽けく寄り添い琴線を顫わせるのだ。卑小な蘆に過ぎないヒトという生き物が、宇宙をそのように捉える時、ヒトは、卑小な己の存在の意味を知り、その責任と為すべきことを知るのである。そして、このことこそが、ヒトの心に安らぎを齎すのだ。サティの音楽は、そのようなものだと、観劇の結果考えた。
満足度★★★★
和み
何と、朝7時半開演の芝居。それも丸の内のカフェが会場なのである。演目は、タイトルの「サルバドルの大事件」内容は、ネタバレに譲るとして、朝食セットも頼める。出勤前の人々が観客なので、話は重過ぎず、出てくる4人はちょっとポンコツというのが味噌。
火曜日、金曜日の朝7時半開演(今年は12月27日迄)。朝劇増刊号として「丸の内の二人」は12月7日と21日の10時半開演だ。
ネタバレBOX
店長役(右近・スーパーエキセントリックシアター)が、発注をやったことのなかった遅刻常習店員(原・トムハウス)にやらせてみた。新米店員(野村・天才劇団バカバッカ)にも手伝って貰って2人でやってくれ、とのこと。内容は“いつもの珈琲を5kg。”安請け合いした原だったが、いざパソコン画面を覘いてみると珈琲豆の種類があまりに多くて、普段店で発注しているのが、何と言う名の豆なのかが分からない。野村も同様であった。ベテラン店員(渡部・円盤ライダー)は資格試験の勉強中なので、仕方なく、旨そうな名の、ブルーマウンテンに似た名の珈琲を発注しておいたのだが。翌日も遅刻してきた原は、出勤時、運送業者から届け物を預かった。が、仕事を開始してみると、珈琲を発注ミスしていることに気付き、大騒ぎになる。
そこで、右近、渡部、原、野村は、昨日発注時の模様を再現してみることにした。ひょっとすると、これで、発注ミスの詳細を特定し、対処法が見つかるかも知れないと考えたからである。再現してみると、野村は、検品の途中から、発注を手伝ったのが判明。その時検品していたものこそ、この店で普段使っている珈琲豆であった。幸い、残量は、今日1日分が充分にある。これで、一件落着。
約40分の短編だが、少しポンコツのキャラを演じることによって、朝、ゆったりとした時間を過ごす出勤前の人々を和ませる趣向だ。楽しめる。
満足度★★★
デスペラード
石破は何を勘違いしたのか、主権者である国民をテロリスト呼ばわり。こんな輩、国会議員の資格無し。即刻、罷免すべきだろう。当にdesperadoである。議論もまともにせず、最初から成立ありきの衆院での強行採決は、議会テロそのものだろう!
ネタバレBOX
こんな状況での攻防が秘密保護法案について展開されている中で、よくもここまで馬鹿げた作品を、と思うが、主張する所は、秘密保護法の対局かと思いきや、最終場面では、多少の路線変更はあったものの、矢張り、自由を放棄し管理されることに甘んじているのは、如何なものか? 志が低過ぎる。
満足度★★★★
演出にもう少し切れが欲しい
床一面に破られた新聞紙が敷き詰められ、辺縁には、ランドセル、炊飯器、椅子、ランチジャー、本、その他の日常用品などが、白塗りされて置かれているのは、無論、津波被害を象徴している。
初演にはなかったキャラクターが、今作では登場している。それは、1970年の女で太陽の塔をデザインした衣装を着ている。無論、商用原子炉の初送電が大阪で開催された万博に送られた歴史的事実を表現する為に加えられたのである。
(追記2013.12.4)
ネタバレBOX
当然のことながら、東北地方に対する差別をも表現している。それは、1000年以上にも亘る差別であるが、今作では、1970年を一応のメルクマールとすることによって、商用原子炉を用いて都市部に電気エネルギーを供給しつつ、被災のリスクを負わされる差別を描いていると見て良かろう。何も、都市に収奪されてきたのは、電力等エネルギーに限らぬが、何より、再演では、これから、半永久的に続く被災地*の核被害を、時を刻む秒針の音に載せて示唆、アイロニーとして表現しており、タイトルを深読みするなら、キル兄にゃの意味する所はkill、U子さんの意味するものは、youであろう。無論、you即ち、我々日本人、及び総ての被爆者・被曝者である。その時、この動詞killの主語が何か? ということが問題になるが、一義的には、放射性核種を擬人化していると自分は捉える。その上で、我々、総ての被災者の中で、真の敵を見付けるラディカルな人々が、被曝・被爆をさせた勢力を怨むとすれば、自分達の奪われた未来に対する復讐の念として、我らの敵、即ち、自民党及び正力、柴田、CIA等々と原子力村推進派(東電は無論のこと、保安院、安全委・班目春樹、読売新聞、産経新聞などに対してこの言葉を向けるかも知れぬ。余りに煩瑣になるので、調べたい人は取り敢えず、ここにアクセスしてみて欲しい。http://nuclearpowermafia.blogspot.jp/)兎に角、敵が如何に強大な世界的組織であるかの一端が分かろう。
*被災地の範囲を何処迄絞るかについては、本当のことを言えば、ガイア全体である。気流、海流も総て地球上を余すところなく回るのが、基本であるから、長い目で見たら、ガイアの上に在る物総てが被害の対象になるのは必然である。何しろ、放射性核種の半減期には、頗る長いものがあって、大陸移動などによっても拡散は、影響するからである。
このように、被災地を広く捉えれば、地球上の生き物に無傷なものはなく、核被害の問題は、遠い彼方の問題であるどころか、我ら自身の問題であることも分かろう。そして、それは、単に人間などという愚かな生き物だけではない。この星に存在する総ての動植物、細菌に至るまでの生き物とウィルスなど、無生物との中間に在るものにも影響を与えずにはおかない、と考えられる。核は、生命そのものへのとてつもない犯罪である。
都市に住む、我らは、そのことにより敏感である必要があろう。そのような深い問題提起をしてくれる作品である。
満足度★★★★
情況設定に苦労したようだ
平田 オリザ若書きということもあるのかも知れないが、彼は絵画については余り詳しくないのではないか、と思わせる。
ネタバレBOX
フェルメールについての学芸員、串本の説明にしてもカメラオブスキュラなど、フェルメール好きな連中であれば、常識中の常識、一々説明するのは恥ずかしいレベルだろうし、もっと別の角度から説明を加えても良かったとは思う。例えば、球面を持つ物体が部屋の中に置いてある点など。また、写真も絵画も三次元を二次元に移行する方法であるという指摘なども高校生レベルの話だろう。オリザ自身絵画に造詣が深くないと告白しているような陳腐な科白が続く。というのも、ラストシーンでは、絵を描く姉、秋山 由美がアーティストとして一流であれば、感動的なシーンになるはずなのだが、二、三流だということが明らかなので、しんみり、分かったような表現になっていることに不自然さを覚えるからだ。感動を敢えてさせないという作劇法としてはあざとかろう。
串本の科白で光るのが、レンズの説明と関連した科白で遠くから己を観る必要性を指摘している点である。日本人のガラパゴス的性格を射抜いて心地よい。
物語は、美術館の休憩場所で進展する。ヨーロッパで戦争が起こり、日本は、特需で潤っているばかりでなく、欧州の美術館が戦災を逃れる目的で日本の美術館に収蔵作品を預けるという状況である。こんな時代の流れの中で、日本人自身、国際的な戦争監視団に参加する者、あくまで戦争そのものに反対し続ける者などとの間に齟齬が、生じているのも事実である。
だが、遠く木霊のように、ガラパゴス日本に戦争のイメージを持ち込むのは良いが、インテリジェンスの問題を無視しているようには思う。日本の現状を多少なりとも冷静に見るならば、完全にアメリカの植民地でしかないのであり、それ故にこそ、安倍、石破、管等と竹中 平蔵などの国賊が跋扈するのである。その程度の分析力は欲しいものだ。それなしに、国内で演劇ヘゲモニーを握ろうとするならば、オリザの考えは、矢張り、未だ隙があると言わねばなるまい。
(追記2013.12.4)
満足度★★★★★
変身(三作目)
韓国もTPP参加の報があったが、IMFに食い物にされたり、厳しい経済状況の中でも対中、対北を睨んでの政治・軍事状況が生活に影響を与える中で、未だ分断されたままの民族が負う厳しい現実を、先ずは見ておく必要があろう。
ネタバレBOX
そして、そのつけを払わされるのが、最も弱い層で在る事実も看過すべきではない。今作で何度も出てくる「真面目で正直な者が、変身する」という行き場のない鬱屈が、女性作家によって表現され、女性演出家によって演出されているのも偶然ではあるまい。
つまり“変身”は、努力しても報われることの無い、真面目な庶民の逃亡願望の喩なのだ。参考までに言っておくと、ノーム・チョムスキーも指摘している通り、IMFの実体は、アメリカ財務省の出先機関そのものだし、世銀にしても、多くの良心的識者の指摘する通りIMFと協同で欧米の利益拡大の為に動いていることは、これまた常識である。その時、弱い立場に置かれる者こそ、紛争を抱える現場の民衆なのであるから、逃げ出したくなるのは当然だろう。力の無い、真面目な庶民に他のどんな方法があるというのか? 自殺以外に。その自殺も宗教的に禁じられている場合には、今作で表されているような形以外にどんな方法があり得るというのだろうか? まして、韓国の場合、現在の日本より遥かに体面を重んじる社会であるならば、今作のように不条理演劇として表現するのが、最も合理的な表現手段と言えるのではあるまいか?