実演鑑賞
満足度★★★★
この日は別の芝居を観た後、思いの外短い芝居だったので「この足で花園間に合うんじゃね?」 と電車を調べたら19時10分前には行ける。恐らく当日券は出すだろう(一応劇団電話に電話するも出ず)と踏んでちょうど大雨の降る中を「ちょっとドラマチックだな」と悦に入りながら向かった。
そう言えば唐組を観始めた頃もあったな、と久々の立見を覚悟して受付窓口で当日券購入。テントの最後尾の出入口はどうやら今回役者は使わないようだ。その少し前あたりに小劇場演劇の重鎮さんが丸椅子に座り、芝居を見ながらやたらと笑っていた。他にも何人か演劇人が居たな。。
という訳で、コクーンや梁山泊でも(確か)観たこの有明海ギロチン堤防を題材にした演目を、改めて味わい直す事に。
お祭り好きだった唐十郎を弔うかのように?テント内は熱気でにぎわい、舞台共々笑いが絶えず。一方自分は改めてこの戯曲の言葉を割と冷静に追いかけていた。
「ほっぺ」と言ってるのか「ほうべ」と言ってるのか、本戯曲の幾つかのキーになるワードの一つは最後まで不明のままだったり、ガンさんと二郎とヤスミともう一人の女性の関係も結局のところ、これだけ耳をそばだてて聴いても分からずじまい。以前観た時の印象と同じくであるが、台詞で状況を説明する分量がえらく大きいのが本作の特徴だ。湯たんぽを作っているトタン板の工場を舞台に、遠く離れた有明海での事が(なぜ皆ここに集まって来てるんだか分からないが)延々と語られるのである。この「言葉で状況や情景を説明する」比重は元々唐作品には多いとは言え、本作は中々の比重なのである。
この作品は人間の無策で無思慮の産物のようなあのギロチン堤防が人間と「人魚(のような存在)」に象徴される生物、その両者の関係に悲しい物語を引き起こす、という大括りの構図を感じさせるが、唐流の幻想譚は本作に限っては、現実を抜け出た先の彼岸を像として結晶しない。幻想が幻想の世界のままに終わる(自分の連想力が及ばないとも言える)。自分の中で「ギロチンは怪しからん」と結論を持っているからだろうか・・。現実において目を見開く事を要請されるより、幻想の中に眠る以外ない、となる。
てな事言ってもテント公演の主眼はお祭りなのである。掛け声が飛び、拍手と笑いが起き、爽快な気分で劇場を去る。それでいいと言われればその通り。状況劇場によく同行した劇評家扇田昭彦氏が亡くなった時唐十郎が訪れ「また楽しいことやろう」と死に顔に囁いたのだとか。楽しんだ者勝ちだ、ってのは強いメッセージだ。
実演鑑賞
満足度★★
台詞に緩急が無く、捲し立てているだけで言葉がほとんど届かなかったしつまらなかった!
役者さんがヘタに見える演出だったと思う。
唐十郎は俺には分からない。
テントならではの雰囲気やギミックは好きだった。
実演鑑賞
満足度★★★★★
出張で札幌滞在最終日の朝に訃報を聞いて、それは代表作『泥人魚』東京公演開幕日でもあった。
そして、翌日予定通りの日時に予定外の状況で紅テントに向かった。浴び、吸い込み、啜るような観劇だった。
上京してから産前産後を除いて唐組を観続けてきたけれど、その中でも忘れられない日になった。状況が状況だから特別にならざるをえない節もあるけれど、むしろ私は、私の胸は、いつも通りの圧倒が全うされていたことにたまらず溢れたのだった。うまく言えないのだけれど、こんなにも大きな喪失を抱え、漂わせながらもいつも通りの眩しく儚い紅、そこで圧倒が更新されていることに心が震えた。
無論前身の状況劇場にかすってもいないことはおろか唐十郎演出の唐組を一度しか観たことのない私である。「全盛期を知らないじゃないか」と言われればそれまでだけど、私にしてみたら観始めたその日からいつだって唐十郎は全盛期じゃないのだろうか、と思っていた。思ってきた。いや、思っている。 ぴたりと同じ時代に生きたわけでない、"全盛期を知らぬ世代"の私も、それでも誰がなんと言おうと、唐十郎の言葉に唐組の劇世界に魅了され続けた、され続けている、歴としたその一人です。
札幌で訃報を聞いた時は事実に輪郭がないままだったけれど、羽田からのバスが奇しくも新宿に、唐十郎なき新宿に着いた時ようやく実感がおそってきた。さみしい、とも、かなしい、ともまた違う、しかし確かな喪失感だった。花園に聳える紅に命の火をうつすように唐さんの肉体から魂が離れたように感じた。風になったようにも思うけれど、やはり水かもしれないとも思う。手を洗うとき、風呂に入るとき、汗、涙、雨、あらゆる水を経験しながら、唐さんの戯曲で出会った言葉の数々を反芻していた。いつも通り当然のように予約していたその日がまさか唐さんを偲ぶ観劇になるとは思いもしなかった。だけど、いつも通り呆気ないまでに素晴らしい役者たちが今日も今日とてドカドカと舞台の上を暴れ回っていた。大鶴美仁音さんの香り立つような儚さ、妖しさに惑わされながら、泥の波間の花園で人魚を見た。テントの紅から人が溢れ出していた。虚構が現実に明け渡され役者が去っても続く遺言の様でも産声の様でもある歌声。その余韻の中で嗚咽みたいな喝采はいつまでも鳴り止まなかった。奇しくも今までで最も"唐十郎"を近くに感じた瞬間だった。