本編『遺影』は男女二人芝居で、上演時間は約25分。その後のトークが40分ほどでした。トークのゲストは評論家の渋革まろんさん。渋革さんの正直かつ率直で、観客に伝わりやすい言葉選びのおかげで、充実の時間を過ごせました。詳しい目の感想:http://shinobutakano.com/2019/01/08/11496/
満足度★★★★
予想した通り、肩透かしなステージ。以前STスポットでのダンサーとの共作で感じた印象は変わらず。(自分が観た回は)満席と相変わらず注目度を窺わせたが、うまく関心を引き付けている手練のほうが気になる。・・正直、こんな代物で人を釣るのだから、何かある。
本編が30分程度、残りは質疑応答。質疑では自ら語り始める事なく、まず質問を受けてやり取りを始める。これも手法だろう。
さり気なく謎を残し、次の機会に持ち越すこと・・志の輔が落語のマクラで伝授していた「人の関心を自分に繋ぎとめる方法」である(CD化したものだが演目を忘れた)。
このユニットというか作演出者の「売り」は文章である、という事が今回見えた。日本語の文法構造をうまく利用し、発し始めた言葉では何を言い始めたのかが判らず、「次」の言葉で文章の形が見える、というセンテンスの構成にしてある。気の利いた比喩が頭に付いていたりすると、頭は真っ白になるが、後続の単語により意味が現われた時、かかっていたストレスが弛緩する。
もっとも耳を凝らして聴いても声量が小さかったり、同音異義語を確定できず文意を掴めずに次に進むしかない所などは、「計算できてない」(あるいはごまかし)、と見えるが、それでも、ゆっくり感情を込めずに喋る事で、単発で発される言葉が如何に意味をなさず、組み合わさる事で意味を形作るかが分かる。戯曲というものも謎掛けと謎解きの織り物であって、最後に謎が解かれる快感が観劇の醍醐味だ、というタイプの人も多いはずだ。
ダイアローグではなく「書かれた文章を読む」という形式で「謎掛けの謎解き」を味わうのが新聞家、これが今のところの私の理解だ。
いずれにせよ、文章への自負が、それを「読む」行為のあり方を実験的に探究する、というあり方を可能にしているのだろうと推察した。身も蓋も無い事を言ってしまえば、パフォーマンスのあり方探求とはポーズであって作者自身はそのネタとなっている文章そのものが、「表現されたもの」であるので、形式云々の「周辺のこと」を幾ら突かれようと痛くも痒くもない、のではないだろうか。「書かれたこと」が核心なのだが、それは「探求」の側面によって触れられない領域となっている。二重生活ではないがそうやって行く内に何か「実的なるもの」との接続が為されるのかどうか・・その時の到来に賭けておられる。その試行錯誤に私はつき合う気は全くないが、「実的なるもの」を掴まえた暁には、注目してみよう。(恐らくそれは演劇という分野では無い気がする・・)