亡国の三人姉妹 公演情報 亡国の三人姉妹」の観てきた!クチコミ一覧

満足度の平均 5.0
1-2件 / 2件中
  • 満足度★★★★★

    鑑賞日2016/12/22 (木)

    【異化の進化形、そして言葉の力】
     この舞台では言葉が宙づりにされ続ける。言葉は話者が相手役に届けるために発せられるのではなく、観客に向かって語りかけるわけでもなく、役者が自分自身に語りかけるわけでもなく、舞台上に投げ出されたまま。どこにも送り届けられることのない言葉は、舞台上を彷徨い続ける。
     それぞれの役に別の動作を課しながら芝居をさせたり、人形で芝居をさせたり、その有機的対話の切断は自然でも不自然でもなく、絶妙に続けられる。また、舞台上での物語と関係ない人物やその動作が介入し、観客の意識も常に切断され続ける。
     観客はその距離のある舞台に対して、そこで投げ出されている言葉を意識的に捕まえに行かなくてはいけない。その際、舞台と観客の間にある目には見えていない社会の事象を通ってそれらの言葉を捕まえることになる。
     舞台装置は難民キャンプのようなテント。あらゆる美術や衣装にまでに丸い穴があいている。水玉を意味するのか、ドットか、はたまた穴の開いてしまった半透明な現実感のことか。その答えは観客が考えるしかない。
     そこにシリアをはじめとする難民問題を重ねることもできれば、そこから生まれる移民問題、3.11や熊本の震災でのことを思う人もいるだろう。また劇中の家族に、現代社会の崩壊しつつある家族関係や不倫問題、DVなどを重なることもできる。
     観客の数だけ、この舞台を観るためのフィルタ―があり、そのフィルタ―を通すと、100年以上前のロシアの風景は、現在進行形のわたしの切実な問題となって起ち現れる。
     物語があることで過去の出来事として認識されてしまうチェーホフの『三人姉妹』を、物語から言葉を開放し、その言葉の普遍性・現代性を露見させている。そこにある力を。
     ただ、一点気になるのは、結局は言葉に依拠しているという点。現代演劇の闘いは、物語(ドラマ)への抵抗というだけでなく、言葉への反逆の部分もあった。とはいえ、もはやその言葉の力も失われてしまった時代に、そこでもう一度言葉の力をということなのだろうか。
     この作品では、その言葉の力を一方で最大限に利用しつつ、言葉と身体とのズレ、自己と他者のコミュニケーションツールであることを根本的に解体してもいる。この点がこの作品の最大の特異性であり、面白さである。それが、現代社会のコミュニケーション不全、対話の成立しない時代、他者なき時代、それぞれが勝手なことを言い、相手の言葉など聞こうとしないSNS型社会を表象している。それが演出意図であれ、偶然の産物であれ。
     このように理屈で考えてきたけれど、理屈で整合性がつかない部分こそが、演劇のもっとも面白いところ。コミュニケーションが解体されている芝居の中で、時折、役者同士の有機的対話が成立しかかる時がある。また、役者それぞれの中でも、言葉や他者との距離の取り方が一定ではない。上手い役者は場面場面によって、その距離感を変えているのもわかる。それらの距離の違いやズレが、この作品に異様なグルーヴと、無機的な芝居の中にある有機性、生命感を与えている。
     作品の内容的な解釈は無粋だと思ってしていないけれど、1点だけ。この作品で繰り返し語られる、何百年も先の未来(正確な文言は忘れました、すみません。)への視座というのは、とても不思議。少なくとも100年強では、この作品の言葉たちは無効になっていない。いや、より切実になっているとさえ言える。チェーホフ賛美で言えば、そこに普遍性があるとか、予見的だと言えるわけだけど、逆に言えば、人間は100年たっても、何年たっても変わらないのだなと思うのでした。せめて、何百年か先には、この戯曲が無効になるような未来であってほしい。まぁ、「無効」の意味が最悪の形である可能性もあり、それは本当に望まないのだけれど。

  • 思ったより原作に忠実な上演になっていたが、散らかっていたステージが次第に片づいていく様子とドラマのシンクロがおもしろい。火事のあたりから次第に「日本」が浮かび上がっていく気がしたのは何故だろう。ナターシャの怪物性が出ていた、というか嫌な女感がすごかった。

このページのQRコードです。

拡大