雲ヲ掴ム 公演情報 雲ヲ掴ム」の観てきた!クチコミ一覧

満足度の平均 3.7
1-3件 / 3件中
  • 満足度★★★★

    戦場をみた!
    何が正しくて何が悪いのか、
    生活の為とは?
    生きていくこととは?

    現実とかけ離れているようで密着しているような
    なんかね考えちゃいました。
    「兵器」に対する感情の戦争でした。

  • 満足度★★★★

    確かに人肌の温もりはありました
    公式サイトから当日券を予約する際、「劇場に来られなかった場合も代金はお支払い頂きます。」とか、「売り切れの場合以外は返信致しません。」などと書いてあるのを見て、何だか居丈高な印象を受け、予約するのを少々ためらいました。あれはあまり感じが良くありませんね。予約しても確認のメールが来ないのでは、本当に席が用意されているのか不安になります。(実際には「ご予約確かに承りました。」という丁寧なメールを頂けましたし、希望通りの席をご用意頂けました。本当にありがとうございました。)

    しかし、暗号化もされていないページで個人情報を入力するのは抵抗があります。特に老舗の劇団では、素人さんがホームページビルダーで作ったような、古き良きテイストのWebサイトがたくさん残っている現状を見ると、よほど演劇界にはWebサイトにかけるお金が無いのだなと残念に思います。

    あと、上演時間が3時間近くもあるなら、その旨も明記して頂きたいですね。もっとも、TRASHMASTERSのように休憩なし2時間半よりは、本作のように休憩あり3時間の方が余程良いですが。

    さて、開演前からロビーには「憲法9条を守ろう」とか「アベ政治を許さない」などのメッセージを身につけた人(公演関係者なのかお客さんなのかは判らず)を見かけたりし、もしかしてそちら寄りの観客だけが喜ぶような、現政権への批判など、政治的主張だけが強いような作品を見せられてしまうのかなと思いましたが、実際にはそんなことはありませんでした。

    確かに、先日のTRASHMASTERSの『猥り現』同様、不自然な台詞や、会話の流れよりも主張を優先しているかのように感じた台詞も何度かありました。しかし、『猥り現』とは違い、主張を強く押し付けるわけではなく、観客に考えさせる余地を十分に残しており、TRASHMASTERS作品よりも遥かに好感を持ちました。

    劇中何度も涙が流れました。「正論だけで生きて行くことは出来ない。人肌の温もりのある言葉を。」といったやり取りは、深く印象に残っただけでなく、それは中津留さんご自身に向けられた言葉のようにも思えました。

  • 満足度★★★

    夜の部。青年劇場への書き下ろし第二弾。中津留節全開の果て・・
    リアルな工場内のセットに、リアルな工員たち、息子らの造形。雰囲気は悪くない。戦車の部品をつくる町工場という着想、出だしはまずまず、刺激的だが・・。

    ネタバレBOX

    前回の「みすてられた島」と言い、今作と言い(自劇団も)「設定」がユニークで、何か起こりそうな、議論百出しそうな予感がする、そういう設定で人はいったいどうなるかという「シミュレーション」が中津留氏の本領だと思う。
    だが、言わせたい台詞、交わさせたい議論を優先するあまりリアリティを欠き、シミュレーションじたいが失敗であるというパターンがしばしばあるように思う。
    「台詞(テキスト)」の力は、「状況」との関係で違ってくる。中津留氏の中で、ある言葉が「発される」だけでも意味があり、インパクトを与えるだろうと判断されているのでは、と感じる所がある。この「状況」に過度に依拠した作りを改めて、リアリティに少し重心を戻す必要がありはしないか。 以前みた作品では、観客の視線は人物の「行動」の意外性にいざなわれたが、最近は人物の「台詞」に意外性の効果を負わせていると感じる。しかし「行為」は解釈の余白があるが「言葉」は意思をもって吐かれるので(言葉を選ぶという作業は理性に属する)、整合性をとりづらくなる・・そんな事がありはしないか(このあたりの分析は不正確かも)。
    観ながら「残念」の原因は台詞の「言い方」にあると強く感じた。前作は中津留氏作・藤井ごう氏演出だった。今回は演出も中津留氏。テキストを客観冷静に、突き放して構築するのが今回の場合は正解だったのではないか。直線的に「主張」したり叫んだり、芝居の「メリハリ」を出すためなのか、言わせている印象が強くそのたびに「リアル」は遠ざかって行く。「まだ修復できる・・」という期待を、悉く裏切るように「叫び」の台詞を挿入する・・観る側としてはそんな感覚であった。
    脚本の「不備」を台詞の強さでカバーし、思いの強さ=彼はそう思ったんだ、その事は否めないだろう=という正当化の弁が用意されている感じである。
    逆に・・というのも変だが、青年劇場の(年輩方の多い)俳優陣が、それでもなおリアルな実在感を示しながら、舞台に立ち続けるのには感心した。脳梗塞で半身麻痺を追った職人の演技のリアルさ。・・思い出すに、あの直線的な「叫び」、正義感の「叫び」、本気の「泣き」、といったぶっ壊しさえなければ、味のある舞台になったのでは・・と、「もしの場合」を想像しないでいられない。
    そうは言いながら、印象的な場面も沢山あり、最後の「雲を掴む」の謎解きの台詞を「詩」みたく言う場面。最後の最後にタイトルと芝居を結合させんとする強引さも、カバーする力強い台詞だった。
    ただ、雲を掴もうとする赤ん坊の姿に思わず自分自身を発見した告白の台詞に、聞く者も「発見」を促されたのなら、たそがれた表情ではなく、今そこに雲がある、という「発見」の演技がなければならなかった(二人登場しており、不可もなく可もない姿。惜しかった・・)。
    総じて、テキストより演技の問題(俳優の「力量」ではなく場面作り=演出の領分の問題)だったとすれば、こんな勿体ないことはない。再演・・は無理か。。

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