「近代能楽集」より『邯鄲』 公演情報 「近代能楽集」より『邯鄲』」の観てきた!クチコミ一覧

満足度の平均 5.0
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  • 満足度★★★★★

    もんもちながら5.0:「邯鄲」
    昨夜、笠川奈美さんの出演されているもんもちプロジェクト公演、もんもちながら5.0「邯鄲」を観て参りました。

     「邯鄲」は、三島由紀夫の「近代能楽集」の中に収められている、一篇の短い戯曲ですが、三島由紀夫の原作の舞台を観るのは今回が初めてなので、観る前に三島由紀夫の近代能楽集の「邯鄲」を読んでから観に行きました。

     読みながら、芥川龍之介の「杜子春」が頭に過り、確か「杜子春」は、中国の故事を下敷きに書かれていたんではと、高校の選択科目で取っていた現国の授業で読み解いた時の記憶が蘇り、「邯鄲の夢」という故事があったのを思い出した。

     「邯鄲の夢」とは、 老人が中国の邯鄲という所の旅舎で休んでいたところ、みすぼらしい身なりの青年が、老人の所にやって来て、今の貧しく不遇な人生と状況を嘆いているうちに眠くなり、老人から枕を借りて眠ったところ、富貴を極めた五十余年を送る夢を見たが、目覚めてみると、眠る前に栗を蒸していたが、その栗さえもまだ炊き上がっていないわずかな時間であったという話で、人生の栄枯盛衰のはかないことのたとえでもある。

     三島の戯曲は、その夢の中のシーンを独特の筆致で幻想的に描かれている。読みながら、頭の中に、まざまざと映像が立ち上がっていてのたけれど、もんもちの舞台が始まった途端に、その映像とピタリと重なる世界が目の前に表れて驚いた。

     「近代能楽集」は、葵上や他にも有名な能楽を三島が書いたその時代現代語の言葉遣いで書かれているので、だいぶ砕けて書かれているような印象を受けたのだが、実際に、登場人物たちその者として舞台の上で佇み、台詞を唇から放った時、三島の言葉の美しさを感じた。

     夢の中のシーンの、笠川奈美さん、細谷彩佳さんたちダンサーの人たちの踊りが、美しく妖しく幻想的な世界を舞台の上に広げて、「邯鄲の夢」の中に自分も吸い込まれてしまったような感覚へと陥って行く。

     生きているのに、全てを悟りすませてしまったように、生きようとする覇気も熱もなく、ただ死んでいるように生きていた主人公が、夢の中で、自分の意思に反して命を費えさせようとする者に迫られた時、最後に「死にたくない!生きたいんだ!」と叫んだ時、死んでいるように生きていた主人公は、やっと夢から覚め、自分の人生の時計がやっと動き始めたのではないだろうか。

     その、変化を越前屋由隆さんが、とても緻密で繊細に目の前に描き出していた。

     「邯鄲」は、栄枯盛衰の夢を見たのではなく、その夢から覚め、現実を生きることを選び、自分の人生の時間を動かし始めることに気づかさせるための壮大な夢なのではないかと思った。

     この世とあの世。現世と夢の世界。美と醜。欲と無欲。相反する2つの世界を描きつつ、実はそれは全て表裏一体、背中合わせ。清濁併せ飲むでないけれど、命ある限り、2つを完全に切り離すことは出来ない。

     そこにあるのは、どちらに重心をかけ、表にして生きるのかということ。

     欲にまみれ、人を踏みつけて生きるのか、その逆を生きるのか。どちらを選択するかは自分次第。

     夢の世界で生きるのか、自分の選び取った現世で生きるのか。全てが手に入る夢の世界で、死んだように生きるのか、栄枯盛衰は夢に世界のことと知り、自分で選び取った人生を生き切って死ぬのか。

     「邯鄲」は、美しい言葉と幻想的な夢の世界で誘い、突きつけられたような素晴らしい舞台でした。

    文:麻美 雪

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