満足度★★★★★
トリガーラインVOI.12公演:「祝祭」
昨夜、下北沢小劇場でトリガーラインVOI.12公演:「祝祭」を観た。
昨日が初日の舞台。今月26日まで公演があるため、詳しい内容を書けないが、公開されている情報を記すと、「1996年12月17日にペルーの首都リマで起きたテロリストによる駐ペルー日本大使公邸襲撃及び占拠事件。翌1997年(平成九年)4月22日にペルー警察の突入によって事件が解決するまで、4ヶ月間以上かかった。在ペルー日本大使館公邸人質事件とも呼称される。」事件をモチーフにフィクションとノンフィクションを織り交ぜて紡ぐ舞台。
モチーフとなった、この事件が起きた時、私は31歳。強行突入のニュースを聞いて真っ先に思ったのは、日本人を含め70人ほどの人質がいるにも拘らずなぜ強行突入したのかと言うこと。強行突入をすることにより、罪も関係もない日本人も含んだ人質にも死者が出るかもしれない可能性があるのに強行突入をし、日本政府もそれに同意をしたのかと言うことだった。
その時、「正義」とは?命の重さとは?と言うことを改めて、考えたと共に、「国にとっての正義とは?国民の命の重さとは?」何なのだろうと憤りにも似た疑問と不信感をいだいた。
それを踏まえつつこの舞台を観ると虚実を織り交ぜた物語で、この舞台がすべて事実ではないが、事の本質は恐らくこの舞台の上に現出したものであると当時感じ、舞台を観ながら自身の体の奥底から湧き上がる感覚とを照らし合わせても確信した。
西岡野人さんの革命運動の指揮官ホセは、知性も教養も持ち合わせているにも拘らず、生まれた国の貧困と状況で、過激とも言える革命運動に傾倒してゆくが、知性と教養をもっていたが故に、人質に危害を加えることをせず、佐川和正さんの国家事案情報局局長で事件の交渉役カタオカや人質たちと話し、関わって行く中で変化するにつれ、観ている側にも、ホセの悲しみと苦しみと憤りにテロ行為自体は何があっても認めるものではないが、心情としては共感というか理解できるように変化してゆく。
佐川和正さんのカタオカは、立場はホセとは相反するのものであるが、同じ悲しみを体と心に内包している故に、交渉を通し話してゆくうちに、奇妙なしかし当然とも思える共感と共鳴、しかしそれに引きずられることなく、互いに命を失うことなく最善の結末を求める姿を感じ、生まれた国、生まれた状況が違っただけで、立場が逆になっていたかもしれないのではと思った。つまり、ホセとカタオカは合わせ鏡なのではないかと。
今西哲也さんのサンチェスは、革命メンバーの中で物語の中盤までは一番、頑なで、武力に訴えようとする直情型のテロリストのように見えるが、彼とて、食べ物より拳銃の数が多く、食べ物は入手出来ないが、拳銃は簡単に手にすることが出来てしまう国に生まれ、貧困にあえがなければ、そうはならなかったのではないだろうか。その頑なで、国だけでなく生きることにすら憤りを感じているサンチェスの頑なさを溶かしていったのは、久津佳奈さんの赤十字国際委員会の委員ソフィアの自分の命を顧みず、敵味方の別なく、人の命を尊重し尊守するために行動する姿であり、陣内義和さんの敵味方関係なく、美味しい料理を食べさせたい、料理で疲れた心と体を癒せればという誠実な温かさ。
そして、日本人の本来持っていた美徳と人質たちとの4か月間という長い時間を共有する中で自分を見つめ、相手を見つめ気づき、知った人が本来持っている誠実さや温かさは、きっと武器よりも武力よりも強く人の心を動かし変えるのだ。
「祝祭」とは祈りと祭り。「祝い」とは古くは、祈ること。「祭」とは、慰霊のため神仏や先祖をまつる行為であり、感謝と祈りである。
「祝祭」は「宿祭」であり、宿命は変えられないと言うが、抗うことは出来る。抗おうとする行動、行為を起こすことで何かは確実に変化し、それが「宿命」を変えることになるのではないか。
何のための正義、誰のための正義、国の正義とは?正義って何?人の命を犠牲にしてまで守るべき、行うべき正義とは何なのだろう?命の重さとはいったい?「祝祭」とは「宿祭」なのではないかそう感じ、考えた舞台だった。
文:麻美 雪
満足度★★★★
初日観劇
主宰の林田一高さんをはじめ、同じ文学座の佐川和正さん、西岡野人さんの会話がとても素晴らしくさすが文学座の俳優さんだなと思いました。
内容は過去作「ラフェスタ」がベースということもあり、過去作を観たことがある人には聞き覚えのあるセリフも多かった気がしました。個人的には好きな作品だったので良かったですが。
今日は初日の空気感も感じました。回を重ねるごとにより良くなっていくのかなと思います。