満足度★★★★★
演劇という概念の拡張:観客自身がドラマを創り出す
※全箇所廻っていないので、途中の感想です。
地図をもらい、そこに書かれた場所(都内各所)に、好きな日時に行き、そこでラジオを聞くという芝居。役者はいない。演出家の仕掛けがあるだけ。
Port Bの作品ではいつも、歴史という縦軸と、現代社会という横軸の重なった地点に自分が立っているということを自覚させられる。
今作でも、土地と記憶との関係を深く考えさせられた。
見えていながら見ていない他者(歴史、外国人、マイノリティ、、)の問題なども考えさせられた。
また、今作では、今までの作品以上に、観客の自由度が増した。
それは、一方で、あまりにも演出の仕掛けが無いことに不満も残ったが、
もう一方で、その点こそがこれまでの作品に対して私が持っていた不満(観客と世界との間に直接的な関係性が生じないこと。傍観でしかないこと。)を解消する契機にもなっていた。
「不満があるのならば、自分でその壁を壊せばよい。観客よ、演出家を撃て。」というように、
観客が自から劇を創造していく自由が与えられている。
そうは言っても、これは高山明氏が意図した事ではないように思う。おそらく自由度を高めたことによって生まれた副産物だろう。勿論、派生的な副産物を生じさせようということに関しては、かなり意識的だったと思うが。
いずれせよ、私はその自由を利用し、積極的に劇体験を豊かにしようと努めた。
指定の場所で、その場と関係の深い人と会話をしたり。
そこで出会った別の観客と飲みに行ったり。
そのような関わりの中にこそ、作家が創る物語よりも、遥かに豊かなドラマがある。
それでも、今作には仕掛けが無さ過ぎるとは思う。
中野成樹・長島確『四谷雑談集』の評でも書いたことに近いが、
確かに演出家の方向付けを弱くすれば、自由が増し、その体験は無限に広がるようにも思える。
だが、そうすればする程、それを「演劇」と呼ぶ意味はなくなってしまう。現実と劇との境が溶解し、すべてが現実に飲み込まれてしまう。
上で私が素晴らしいと書いた点はすべて、本を片手に自分で街へ出ることで得られる体験でしかないのだから。
勿論、ラジオの仕掛けはある。
だが、ラジオというイヤホンを耳にさし自分の内部に意識を向かわせながら外界を見るという体験は、これまでのPort Bの作品では、「世界に対して、人は傍観しかできない」ということを自覚させるられる装置として強い問いかけをもった演出だと感じていたが、観客が自らの意志で世界へ接続できる場に放たれた時、ラジオから聞こえてくる言葉は、ただのテキスト(文字・意味)としか私には感じられなくなってしまった。勿論、文字・意味としては、意義深い内容だとは思うが、それ以上のものとしての機能を果たしていなかったのように感じる。本来は「声」として聞かせることを意図しているのだと思うが、生身の人間の声とも、主体を持たない土地の(記憶の)声とも聞こえなかった。
そうは言っても、意図か、結果としてそうなっただけかはわからないが、
観客が積極的に劇体験を掴み取る場を用意したということは画期的なことだと思う。
※ひとつひとつの場所での体験は、後日、ネタバレに書きます。行ったら順次書き足していきます。)