「災害ユートピア」が暗闇に潜んでいる
暗闇の中、劇場に響き渡るのは、役者の放つ声のみ である。
姿形が見えぬなら、音響プレイヤーをステージに置き、それを流せばいいのではないか、という人もいるだろう。
その疑問は的を得ており、たとえば映画館のスクリーンを照らす映写機が故障していた場合、作品の音声だけでもチケット代1800円 支払う観客は皆無である。もし、字幕版『アバター』を音声だけで聴けば、臨場感のある英会話にすぎない。
だが、このような【?】を頭上に浮かべる紳士淑女は、「暗闇演劇」を一度も観劇しておらず、ネオン街の生活に溺れてしまっていることを察する。
今すぐ、ネオンの小さな発光体をリサイタル店に出すか、秋葉原で高環境性能のLEDを購入し、付け替えるべきだろう。
「暗闇演劇」の特徴は、都会から一つの「別空間」として劇場を分離する点にある。これが、世に云う「怪談噺」の雰囲気作り だが、やはり見知らぬ人同志が肩を寄せ合い、「別空間」を共有するのは日常生活を送るなかで そうはない。私は、東日本大震災で海外メディアが「支援物資に並ぶ日本人」を賞賛した記事と結び付けたく思う。
「災害ユートピア」と呼ばれる、大規模な自然災害後に出現する人と人が共生の精神の下、供に助け合う集団現象の一つの現れ である。震災後、仮設住宅での家庭内暴力などは問題になったものの、「社会動乱」(自然災害含む)を機に内閣へ非常事態権の付与を可能とした改正憲法案を読むと、自然災害を もう一つの顔=「災害ユートピア」のアプローチで考える観察眼も必要ではないか。
観客(他者)の存在を感じるのは「笑い声」…。あるいは、「笑い声」を発することでしか、自らの存在を示すことはできない。
おそらく10年目を迎えた「暗闇演劇」のレビュー史のうち、観客の相互関係を紐解いた文書は 他にあり得ないだろう。
密室で起こるサスペンスだとか、笑いだとか、疑心だとか、団結だとか、そういった糸を辿ってゆく感覚は いつの日かの少年である。
この演劇を、スポットライトを当てた上で行ったとしても、私は「すぐ消してください」と切望するに違いない。
※ネタバレ
街から灯りを消せば、電力と 煩わしい毎日は排水管の底へ沈む。しかし、一人きりになれ、とは言わない。
「蝋燭」の周りに、見ず知らずの人々が集まり、供に同じ空間を共有する…。それこそが、中世ヨーロッパの共同体であって、日本の落語文化であって、社会的には「災害ユートピア」へ繋がるのだと思う。
私たちは劇場を出た時、旅に疲れ癒されたヒッチハッカーである。
満足度★★★★
暗闇演劇10周年
初めての観劇であります
ほんとーに真っ暗でした、暗所恐怖症の人は無理でしょうねぇ・・・。
10年で4人の退席者が先の回では混乱したお客さん1名につられて、
1回に4人になったとか・・・・。
笑えたり怖かったりと、いろりろ感情を揺さぶられた2時間でした。
満足度★★★★★
笑いに包んだ毒薬
暗闇の演劇ということで、天井桟敷の『盲人書簡』のような、劇構造を解体したり、見るという行為そのものを相対化するような実験演劇かと思ったが、そういうものではなかった。だが、その方法は充分に実験的。
大川工業ということで、はっちゃけたものを想像していたが、
芝居自体は正攻法の芝居。
笑いの要素は当然多いが、おふざけで笑わせているというのとは違う。
計算された脚本と演技力で笑わせている。
しかも、その笑いのオブラートの中には、社会風刺の毒薬が仕込まれている。見事。
そのような芝居を暗闇でやるとどうなるか、、、
単に普通の芝居を暗闇でやりましたという訳でもない。
そこには暗闇でやることの意味はきちんと考えられている。