満足度★★★★
J・鶴田。。
最後の仲直りの言葉には胸がつまる思いがしました。世界最強タッグのチャンピオンは仲のいい夫婦がふさわしいという事でしょうか。。非常に好感の持てる舞台でしたが、まだ役になりきれていない役者さんも見受けられましたのでそこは残念でした。
満足度★★
集中力を消費させられた芝居でした
すごく面白かったんですが、狭い劇場内で喫煙されてましてねぇ・・・。
最前列のお嬢様の幾人かも咳き込まれていました。
なので超個人的に星は2つ引かせてもらいました。
満足度★★★★★
期待通りでした
大人のお芝居でした。判り合える境界がしっくりいっていて、いろんな楽しみがありました。淡々とした中で、非日常が当たり前に提示されていくところに、違和感もなく、ジーンと響く台詞も魅力的でした。ここ1ケ月の間、否応無く身辺に死を受け入れてきました。これまで自覚することはなかったですが、劇中の台詞が沁みることで哀惜の深さに今更ながらに気付けました。観にきて良かったです。
満足度★★★★
日常の隠れている事!
何でもない日常の中にもっと感じなければならぬことが隠れていることを認識せなばならない。ダイナミックなドラマは要らない。人が生活するだけでそこには何かが存在し、感じるものがある。
100出せる力をワザと50しか出さない潜在的なパワーとその空気を芝居から感じとれた。思いの丈伝わっています。
満足度★★★★★
堪能しました
地方出身で東京で暮す者にとって、なんとも生々しく、ズッシリとくる芝居でしたね。鹿児島の農村が舞台でしたが、宮崎出身の自分には一部共通する方言が懐かしかったです。しかし役者さん達みんなうまい!
満足度★★★★
非演劇的演劇
事件らしい事件は殆ど何も起こらない。或いは、曖昧に処理される。それだけに役者の力量、筋の運び方、目立たない演出が重要になる。伝統的にカソリックのフランスでは、ヌーボーロマンに照応するようにアンチテアトルが起こったが、日本の伝統には、そもそも、絶対基準というものは存在しない。物事は、浮かび流れ去る泡の如きものであり現象であるに過ぎない。能で日本人の心の働き、魂の働きの極限領域として狂が描かれるのは、絶対が無いからである。その為、或る表現の強度を高め、保つ為にはその在り様の極北を目指すしかないのだ。
今作でその強度を保障しているのは、土地、土地柄である。だから、方言は必然になるのだ。このように劇的なるものを避ける手法を自分は、非演劇と名付けておこう。未だ、この手の作品は少ないかも知れぬが、一つのムーブメントになる可能性は秘めているかも知れぬ。
とても分かり易い例を今作の中から1例だけ引いておく。タイトルの「ビールのおじさん」だが、通常の主役ではない。寧ろ、老子の“上善は水の若し”という思想に近い。
満足度★★★★
キャラがしっかり立っている・・
俳優陣の演じる各々のキャラがどれもしっかり立っていた芝居でしたね。
ですから、終演後にお声を掛けさせて頂きお話したら案の定役柄とは全くの別人だったという具合で・・・、感情移入して最後までとても楽しめました。
方言の芝居って難しいですね
最近、方言で話す別の芝居を見た。
比べてしまっては悪いが、方言を話す芝居をするなら、まずはそれを自分のものにしなればなるまい。
「会話」になってるとかそれ以前に、言葉が自分のものになっていない役者さんがちらほら…
「ビールのおじさん」こと智良役、パートナーを失った母・倫代役、障害を持つ正役は良い意味で印象に残った。
智良役は、「あーいるいる、こういうヘラッヘラしたヤツ」というのが体現されていた。それは一種の照れ隠しだったりもするのですが。鹿児島弁も立ち居振る舞いも一番自然。
倫代役は「家庭の中を仕切ってきた母」と、「好きにするってどういうこと?と考え込む女性」の二面性を表現出来ていた。この二つの面でこうも印象が違うなんて…
正役は一目でそれと分かった。「(パソコンに)触らないよ」と言いつつ興味津々な所や、「馬鹿」と言われて怒り出す所などは本当にそういう子みたいだ。
脚本は、結末や理由を曖昧にしている部分が目立った。
「こうかもしれない」「いやこうなるのかも」といった考えさせられるものではなく、「あの二人って結局どうなったの?」とか「あの人結局何してたの?」とか。
自分はこういう所をハッキリさせておきたい人間なので、この辺りは消化不良。
すみません、それから智良が尚に関してしていた勘違いがどういった勘違いだったのか、私には分かりませんでした。
お客さんから笑い声も起こったので、分かる方には分かったのだと思います。私の理解力不足であることを願います。