鴉よ、おれたちは弾丸をこめる 公演情報 鴉よ、おれたちは弾丸をこめる」の観てきた!クチコミ一覧

満足度の平均 3.5
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  • 満足度★★★

    なぜ?
    素人の老人が、それぞれの人生を背負って舞台に立つ。
    そこには役者のプロには決して出すことのできないものが内包される。
    その点に関しては、素晴らしいと思える部分もあった。

    だが、なぜこの戯曲なのか?

    蜷川さんの想いは理解できなくもないが、
    演じる側にそれは伝わっていたのだろうか、、、
    いや、その想いは共有できるのだろうか、、、

    ネタバレBOX

    これは1971年に現代人劇場で上演された芝居だ。
    政治闘争も下火になってきた中での敗北を扱った芝居。
    歴史は常に勝者の歴史だ。そこでは、負けていく者の想いは行き場もなく宙づりにされ続ける。だから、この芝居の主人公は老婆なのだ。
    男ではなく、女。若者ではなく、老人である必要があった。

    当時の劇評にはこうある。
    「・・・この“民衆裁判”の末尾で老女たちは、同志であるはずの青年に対してさえ、「私たちの期待にこたえなかった」として、死刑を宣告する。この戦闘的な民衆像に三里塚の農民のたたかいが濃い影を落としていることは容易に見てとれるが、いずれにせよ、もはや若者によっては、根源的なアジテーションをなしえないこの“閉塞状況”に対する作者の切ない悲しみは充分に伝わってくる。」
    (扇田昭彦「朝日新聞」71年10月21日 <劇的ルネッサンス』より孫引き>)

    当時の文脈を考えれば、三里塚闘争ならびに学生運動が衰退していくことと関連付けて考えるのは当然だろう。
    現在、この作品を観る場合には、より広い意味での敗北の歴史が視野に入る。

    鴉婆(老婆)は言う「狂うといえば、あたしゃとうから狂ってるのさ。とうから憎悪の炎にせつなく身を焦がしてきたんだよ。百年、二百年、いや一千年前から・・・・・・わかってるのかい、お若けえの。あたしら子孫なんぞ、蝶よ花よと育てようとは思わなかったねぇ。あたしらのこの胸のうちに燃える憎悪を、どうやって子や孫に塗りこめるかそれだけが生甲斐。・・・」

    学生運動の敗北とともに、多くの人は政治問題から関心を失っていった。それどころか、政治に関心を寄せることそのものが、悪いことであえあるかのようになっていった。それでも、政治と権力は厳然として残り続ける。そのツケがまわってきたかのように、原発事故が起こった。私たちはただ目を逸らしてきただけなのだと気づかされた。

    原発推進も戦後のアメリカによる日本統治政策の一環でもある。それは、二号研究など戦前の日本の原子力爆弾開発の流れも汲んでいる。

    いずれにせよ勝者たちの歴史。その陰にある敗者の歴史、想い、憎悪とは、、、。

    自身も74年に商業演劇に転位した蜷川氏が、現代人劇場で問いかけていたことを、ゴールドシアターで問い直そうと考えたのかもしれない。

    だが、ゴールドシアターに集まっている面々は、それぞれの人生を背負っている重みは感じるものの、その背負っているものは、蜷川氏のそれとは大きくかけ離れているのではないか。端的に言えば、政治的な憤りなど感じずに生きてきた人が多いのではないか。敗者の想いを背負って生きている人はそこにいないのではないか。勿論、そういう生き方が悪いとは思わない。それが圧倒的多数だ。ただ、この芝居を、素人がやる上で、その点が重なっていないと、必然的に強度のないものになってしまうと言いたいだけだ。実際、その演技はとても空疎だった。単にヘタだと言いたい訳ではない。演技の上手さなど端から期待していない。歴史に埋もれていく敗者の想いを少しでも見せてほしかったと思っただけだ。

    また、蜷川氏の演出にも疑問が残る。
    最後に、虎婆が「なんをぶーたれてんだい、死ぬんじゃない。くたばってたまるか。生きるんだ、若者の血をよみがえらせて生きるんだ……」
    と言い、鴉婆が「真の闇よ……日本の一万年前にあった真の闇よ……あたしたちの憎悪をはぐくんでくれた真の闇よ……あたしたちに甦る力を与えておくれ。」と言い、闇の力を借りて、老婆たちが若者へと転身していく。
    ここで蜷川氏は、ネクストシアターの本物の若者の肉体を持って、転身(若返り?)を表現した。
    初演時の若者が老婆を演じていた設定ならば、老婆から若者へと歴史を背負った想いが受け継がれていくという解釈も成り立つだろう。
    または、これがゴールドシアターの公演ではなく、ネクストシアターとの共同公演ということであっても、そういう解釈は成り立つ。
    だが、あくまで、ゴールドシアターという老人が主体の劇団でのこの演出では、老人の身体が若者の身体に変わるということは、私には単に老人の肉体の敗北にしか見えなかった。もちろん、それが負けていくということなのだと言われれば、残酷なことだが、納得せざるを得ない。だが、そういう意図で演出されたようにも見えなかった。年老いた身体が若者の身体に転身するというきらびやかなスペクタクルとして演出されていたからだ。(ただ、このシーンのスペクタクル性は確かに感動的ではあった。)私としては、見た目は一切変らないのに、老人自身が、若者のような活き活きとしたエネルギーに満ちていくという姿が観たかった。

    いずれにせよ、なぜ、この劇団でこの戯曲だったのか、、、私にはわからなかった。
  • 満足度★★★★

    ネタばれ
    ネタばれ

    ネタバレBOX

    さいたまゴールドシアター【鴉よ、おれたちは弾丸をこめる】を観劇。

    作・清水邦夫、演出・蜷川幸雄のゴールデンコンビである。
    71年に蜷川幸雄率いる現代人劇場にて、石橋蓮司、蟹江敬三、真山知子、緑魔子で、アートシアター新宿文化で公演した舞台である。それをさいたまゴールドシアターにて2度目の再演である。

    物語は、二人の青年がチャリティーショーに手製爆弾を投げ込んだ罪で裁判にかけられている最中、彼らを救いに爆弾、ホーキ、傘などを武器に何十人という老婆たちが、裁判所を占拠し、自らの手で検事らを裁判にかけ、その場で刑を下していくのである。そして警官による強行突入の末、老婆たちと国家との戦いが始まるのである・・・。

    団塊世代が観たら泣いて、泣いて、悔やんでしまうほど、その当時、社会を変えられなかった、変えることが出来なかった事を嘆いてしまうほど無念に満ちた内容である。では何故、若者ではなく、老婆が裁判所を占拠するのか?
    それは国家を変える事が出来ずに、逃げてしまった当時の若者たちが、未だに悔やんでいる何十年後の末路の姿であり、それを今の若者に託そうと再度国家を占拠して、伝えようとしているのである。そして老婆たちは、今度は逃げずに死を覚悟して、国家に戦いを挑むのある。そしてあの樺美智子の様に、最後は逃げずに全員殺されてしまうのである。
    今作の最大の見どころは、団塊世代以上の素人老人俳優たちが演じる事によって、なんともいえない程の狂気をはらんだ芝居で、当時の無縁さを演技ではない、実体験を通して演じる事によって、凄みを感じさせるくれる事だ。全く下手でしょうがない演技ではあるけれど、それをプロの俳優が演じるという事では決してなし得ない、人生経験という最大の武器を使って、国家でなく、観客に立ち向かっていく姿には誰もが涙してしまった。そして今作の演劇としての最大の面白さは、最後に老婆たちは国家に皆殺しにされたしまった瞬間、その無念さを未だに持ち続けているという証を、当時の若者の姿に戻り(早変わり)、そして死に向かっていくというラストで締めくくられるのである。その瞬間はまさしく生の演劇的興奮の絶頂であり、時代を感じさせてくれた最高の舞台であった。まさしく伝説であり、時代に残る傑作舞台である。

    蜷川幸雄は唐十郎、寺山修司、清水邦夫の戯曲を手掛けるとどれもが面白くなるのに、シェイクスピアだとさっぱりつまらんというのはどういう事なのか?
    その辺りは世界のニナガワと認めたくないのだが・・・。

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