境目 公演情報 境目」の観てきた!クチコミ一覧

満足度の平均 3.0
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  • 実演鑑賞

    満足度★★★

    鑑賞日2025/03/09 (日) 16:00

    座席1階1列2番

    価格2,500円

     キビるフェス、二本目。
     「ギムレットには早すぎる」は福岡の劇団。創設されてまだ間がなく、よく言えば「若さ」、悪く言えば「青臭さ」が目立つが、芝居自体の印象は決して悪いものではない。
     芝居そのものには概ね満足はしているのに、どうしても「青臭さ」を感じてしまうのは、やはり劇団名と芝居内容との間にギャップが生じているせいだろう。ハードボイルドを気取るのはちょっと背伸びし過ぎてる感じなんだよねえ(説明は不要かもしれないが、「ギムレットには早すぎる」というのはレイモンド・チャンドラー『ロング・グッドバイ』中の有名な台詞だ)。
     とは言え、劇団の名前に気恥ずかしさを感じるのは、こちらがすっかり歳を取ってしまっているからだ。旗揚げしたばかりの劇団名なんてどこも似たりよったりの痛々しさを持っているもので、まあ背伸びしてみせるのも若者の特権だからなあと、生暖かい目で見守ってあげることもできなくはない。
     とは言え、貶すのも可哀想だと批評に“手加減”を加えたり、過剰に甘やかして称賛したりすることは、かえって若い劇団のせっかくの伸びしろを摘んでしまうことになる。いわゆる「褒め殺し」ってやつだ。「概ね満足」とは書いたが、細部において幾分の物足りなさを覚えたことも事実。そこは客観的に指摘しなければならないことだろう。

     「境目」というタイトルに象徴された視点は極めて興味深い。演劇的かつ、世界を俯瞰する視点だと言える。
     彼我の間、私と貴方、自己と他者、個人と世界、日常と非日常、現実と虚構、生と死と、全ての「関係性」の間に「境目」は存在する。「境界論」を語ることは「宇宙論」にもなり得る。
     我々がどこから来て、どこへ行くのか、人間の実存の根源論にも「境目」が存在しているのだ。
     『境目』の脚本家がどこまで境界論を敷衍させて戯曲を構成したのかは分からない。しかし少なくともそこにある「境目」を何らかの方法によって突破することができなければ、世界の「関係性」を構築することは不可能であるとは認識していたように思える。
     別役実が指摘していた通り、演劇が「中景の芸術」であるのならば、当然、演劇空間にも「境目」は存在する。例えば、舞台と客席の間の「境目」は、いわゆる「第三の壁」と呼ばれる「見えない壁」だ。そのことに自覚的な近代演劇においては、「第三の壁」が破られることは珍しいことでも何でもない。
     今回の舞台でも、冒頭から登場人物たちが観客に関わって、最初から第三の壁を破ることから物語が始められている。ああ、タイトルの「境目」って、そういうことなのね、と観客に分かりやすく示してくれる。説明的でなく、具体的な演技で観客に感得させてくれるのは、いかにも「演劇的」だ。

     しかし、演劇が突破すべき壁は「第三の壁」のみではない。先述した通り、この世界の全てにおいて「境目」は存在している。何かの「境界」をモチーフにして演劇を構築するなら、その想定し得るあらゆる「境目」にコミットするようなドラマを設定しなければ、舞台空間は成立し得ないのではないか。
     安部公房『壁』では、作者は「壁」を具体的に現出させながら、その「概念」は読者の想像の自由に委ねられていた。それゆえに壁は千変万化し、森羅万象を象徴する存在として、我々の内と外の双方に立ち現れることになった。
     抽象的な物言いになって申し訳ないが、今回の舞台での一番の不満は、我々を取り巻いているであろう無限の「境目」が、私たちにとってどんな意味を持つのか、快楽か幸福か、はたまた不安や恐怖か、想像の翼を広げるには至らなかった点にあるのである。
     惜しいところまでは辿り着いてたんだけどね。

    ネタバレBOX

     主人公は「ミドリムシ」くんという少年。物語は彼の日常を淡々と追う形で展開するが、特に大きなドラマはない。
     ミドリくんの部屋に誰や彼やが訪ねてきて賑やかになるが、やがて誰もいなくなる。ミドリくんたちは居酒屋で忙しくアルバイトに勤しむが、それも一段落すると、彼らは自然に別れる。自分の部屋に帰ってきたミドリくんは、一人、自分の「境目」らしき「箱」を突き破る。
     筋があるようでない、曖昧でアンチドラマな物語だが、それは構わない。恐らく、私たちにとって最も重要な「境目」は、平凡で代わり映えのしない日常の合間に、脈絡なく現れる。何もおかしなことが起こらないから「ひずみ」は生じるようになる。澱か゚溜まるように、塵が積もるように。そういうものだろう。

     ミドリくんは明らかに「自分の体の使い方を間違えている」。自分の意志と、自分の体の動きとがいつもチグハグだ。多分、彼の「境目」は彼自身の皮膚に張り付いている。彼は自分の言葉が微妙にズレて相手に届かず、自分の仕草が歪つで相手を戸惑わせていることに気づかない。「境目」はミドリくん自身を覆っているか゚、それを剥ぎ落とすことができずに、ミドリくんは、いつも戸惑っている。
     でもミドリくんだけが特殊なわけではないだろう。ミドリくんは相当「おかしい」が、人間は大なり小なり、どこか歪つで「おかしい」のだ。
     「境目」は明らかにミドリくんを蝕んでいる。ミドリムシだからかな(苦笑)。物足りなさを覚えたのは、劇中のミドリくんが、蝕まれるままになっているからだ。不安や恐怖、あるいは憎悪がミドリくんを闇落ちさせているのに、ミドリくんは何の抵抗も見せない。
     「境目」の向こうに行こうよ、行かなきゃなんだろう? そう何度も問いかけたくなるが、ミドリくんは何の変哲もない日常に翻弄されるばかりである。

     物語のクライマックスは、居酒屋でのドタバタ。
     料理を作れるのは店長だけらしい。ミドリくんと友達(名前忘れた)は配膳しか出来ないが、次から次へと任される料理に右往左往させられる。
     料理はもちろん本物ではなくて、ゴム棒みたいなのを見立ててるんだが、どう見てもカツオやマグロを丸ごと渡してるようにしか見えない。
     その狂騒ぶりは楽しくはあるけれども、さて、ミドリくんは果たして「境目」の向こうを覗き見ることは出来たのかどうか。どうもこの狂騒が、何か現実を突破したようには見えないこと、「世界を革命するまでには至らなかったこと」が残念に思えてならない。
     映画『家族ゲーム』のラストで、松田優作かが「家族の偽善」だけでなく、映画そのものを破壊してしまったような破天荒さ、カタストロフィーを期待するのは筋違いだったろうか。

     居酒屋シーンに「音」がなかったことも、イマイチ盛り上がらねえなあ、って感じた原因だったと思う。
     コメディのクライマックスには、それがどんなに悲劇的であろうと、たいてい、能天気な音楽がかかるものだ。『吾輩はカモである』の戦争勃発シーンでは『私を野球に連れてって』が、『モンティ・パイソン ライフ・オブ・ブライアン』の磔シーンには『いつも人生の明るい方を見ようよ』が、『博士の異常な愛情』の核戦争シーンには『また会いましょう』が暢気に流れているのである。
     こういう「喜劇センス」ってのは「経験値」でしか鍛えられないからね。次作以降、「もっと面白くできるはずだ」って姿勢で取り組んでいけば、常に「今作ってる作品が最高傑作」になっていくと思う。
     期待はしていいんじゃないかな、この若い劇団には。

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