実演鑑賞
満足度★★
鑑賞日2025/03/23 (日) 13:30
座席1階
■“モデルプレス読者モデル”松本旭平、2年ぶり再演舞台で自信 意気込み明かす
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「鬼灯(ほおずき)」を盆に死者の霊として飾る風習は、日本だけでなく、韓国、ベトナムにもあるらしい。多分、ルーツは中国だろう。
最近観た某アニメでは「ほおずき」は堕胎を促す毒薬として描かれていたから、いささか不気味な印象も感じないでもないのだが、本作でのほおずきは、ごく小さな、魂の宿る木の実であって、どこか切ない。
タイトルの「ほおずきの家」とは、北九州にある小さな食堂のことだが、これまた別に死者が大挙して集まっているようなホラーハウスなどではない。主人公の家族を含めて、そこに集うお客たちなどはごく普通の人々。彼らのごく当たり前な日常が描かれるのが「ほおずきの家」のあらましだ。
仕事帰りにちょっと一杯、でも明日も朝から早いから、飲み過ぎには注意、そんな市井の人々の光景は、現実の北九州でも普通に見かけることなのだろう。要するに本作は、これまで何百何千と作られてきた「ホームドラマ」の一つだ。北九州を舞台にした『寅さん』シリーズと言ってしまってもそう間違ってはいない。登場人物たちのいざこざが「人情」で解決される顛末も、悪く言えば「ありふれた人情喜劇」の展開だ。作者の釘本光はかなり向田邦子に陶酔してるんと違うかな。
ただちょっとだけ「普通」と違っているのは、この店の女主人・凪が、時折、他人には見えない「誰か」と会話をしていることだ。それは35年前に彼女を捨てて上京、客死した元夫の信洋である。
信洋は在日コリアンの二世だった。凪との結婚も、そのことが理由で凪の母親に反対され、破談になった。映画監督を目指していた信洋は、本名の「金信洋」名義で1本の゙映画を残し、東京に去った。しかしその時、凪のお腹には、彼との間の娘が宿っていた。
それから三十数年、信洋は北九州に帰ることなく、凪や娘に会うこともなく世を去った。その信洋の魂と、凪は時折、会話を交わすのである。お互い、後悔がないわけがない。しかし、あの時どうすべきだったかを語ったところで、それは全て取り返しのつかない過去の出来事だ。
言葉は虚しく虚空に舞う。凪が見た信洋は、本当に本人なのだろうか? 単に凪が見たいと望んだ幻に過ぎないのではないか。信洋を結局は引き止めることが出来なかった凪の心情を思うと、こうして“都合よく”現れてくれる信洋の存在は、やはり彼女自身が自分を慰めるために作り出した虚報ではないかという気がしてしまうのである。
そのあたりの解釈は観客の想像にお任せする、と言われそうだが、女が先に男を捨てたのでなければ、男は女を捨て土地を捨てて出ていく必要はなかったはずと、どうしても釈然としないものを覚えてしまうのである。全てが許されたような、さっぱりした顔をされてもどうなんだろうね、って思ってしまうのだが。
ほおずきの家/J:COM北九州芸術劇場
https://q-geki.jp/events/2025/hotsky-hozuki/