XTC 公演情報 XTC」の観てきた!クチコミ一覧

満足度の平均 5.0
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  • 満足度★★★★★

    無題45
    本公演、5回で5人のお客さん(1回、1人)。みた(本公演の場合、「みた」というのとは相当違いますが)のは一番最後の回です。大江戸線で隅田川を渡れば、門前仲町、清澄白河、森下、両国とひと駅ごとに劇場やアトリエがあります。そんななか、今夜はSNACでの一人芝居、ジエン社の清水さん、そしてお客さんは…「私」一人。

    あとで知りましたが稽古見学があったんですね。一瞬、みたかったような気もしましたが、よかったのかもと思います。

    清澄白河で降りるのは2回目。東京都現代美術館に「借りぐらしのアリエッティ」の展覧会を見に来て以来。会場のSNACは外から見ると空き家。中に入っても空き家...何もありません。受付をしていただき中へと促されます。明かりがついていないので、薄暗くまったく人気がしませんし、椅子などもないので入り口近くで立っています。5分ほど経ってから、清水さんが奥から出てきました。お芝居の始まりです。ん?どうやらもう少し中央へと言っているようです。

    あらすじは「STORY」にあるように、知人の死を受止められない「わたし」が語る、という形をとっています。一方、"観客"である「私」は、「発言を求められない」というCONCEPTに従い、意見を述べたり、返事をしたりはしません。本当は何か言った方がよかったのかもしれませんが…。

    今日のお芝居、きっと最初で最後の経験。

    ネタバレBOX

    かつての同級生「ヒロセ」の死を伝え聞いた「わたし」。ところが、それは、いままで思い出すことがなかった、記憶にない、実感のない名前。日常=今この時、非日常=記憶を辿るが見つけられない、その間での葛藤。かわいがっていた犬の死については思い出し、昨日のように語ることができても、死んだ「ヒロセ」については意識のどこを探しても見つけられない。「わたし」の断片が喪われたような感覚。生きるということ、ぬくもりを感じるということ。何が現実なのか。バイト(現実)には行けるが、葬式(非現実)には行くことができない「わたし」。他人と同じように振る舞うことができないと責められているように感じる。そんな「わたし」を見つめる「私」。まわりから聞かされる「ヒロセ」のことは、記憶の奥底に薄らと沈んでいるものとさえまるで違っている。自分は何か。周囲と共有できない苛立ち、不安、自己嫌悪。記憶の欠落は自己喪失ではないのか。日常への回避、それが「わたし」にとっての現実。直面しなければならないものというのは何だろう?

    二人きり、舞台装置などないので「わたし(清水さん)」は「私(miss_you)」に話し続けます。もし、ここにまったく関係のない第三者が入ってきても、友人同士の会話(一方的ですが)にしかみえないでしょう。自分でも整理しきれない感情をどうやったら伝えられるのか「わたし(清水さん)」は、ときには言葉につまり、言葉を探し、言葉にならないものをからだ全体で示そうとします。

    最後に語りかけられた言葉「あなたは誰ですか?」。先に書いたように、返事をしたほうがよかったのか、今でもわかりませんが、「私」は、観客ではないもう一人の「わたし」。

    途中、明かりを消したりしましたが、何もない部屋で約40分。前説なし、おわってからのアンケートもなし。話を聞いて…おしまい。手を伸ばせば触れることができる距離、お互いを見つめ合う空間。

    お客さんが、男性/女性、時間が、夕方/夜で演出が多少違ったりするのかな。

    1年前、何十年ぶりかで中学校の同窓会に行ってみました。顔をみても分からない、語られる思い出話の記憶がない。日々の出来事、ひとつひとつのことは、毎日、記憶に留めておかなければ、いずれ、あったことすら忘れてしまうものですね。

    XTCは「エクスタシー」のことでしょうか…
    反省点:「20年安泰」(@水天宮)のとき、ジエン社、もっとよくみておくんだった。次回公演は1月か。

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