映像鑑賞
満足度★★★★★
米兵による少女暴行事件とその後の抗議運動の盛り上がり——「何かが変わるのかもしれない」と思わせた1995年の沖縄を舞台に、反戦地主でもある祖母、娘、孫娘の三代にわたる女性たち、本土から訪れた娘の元彼、沖縄防衛局の女性職員……それぞれの葛藤や決意が描かれる。
3世代の女性の姿から立ち上がってくる傷、傷ついたものがつながる共感の生々しさはいわずもがなだが、いわゆる”当事者”のみを描くのではなく、県外出身の登場人物にも光をあてたことで、このドラマに立ち会う観客すべてに、基地の問題、沖縄が抱えこまされている矛盾を問う作品になっていたと思う。時折挟まれる法律の条文も、人々の暮らし、その現実との繋がり、あるいは乖離を実感させるものとして機能していて、耳に残った。
「東京からしたら沖縄のことは向こう側の、遠い土砂降り」
シリーズ前作にあたる「カタブイ、1972」から引き継がれているこの台詞は、あまりにも胸に迫る。ましてや、今の私たちは「何かが変わりそう」と思えた県民総決起集会の後の20数年を知っているのだから。
実演鑑賞
満足度★★★★★
「1972」から「1995」と一世代下った時代の沖縄、さとうきび畑農家を舞台に、装置も(劇場も)同じ形をなぞっていたが、同じ家族の物語だとは後でパンフを見て気づいた。
故人である誠治おじい、そしてつい先日亡くなった信夫おじい(その孫である当家の一粒種=中二の智子から見れば祖父だ)と、二人の名前が序盤で頻繁に口にされるも区別がつかなかったが、前作を踏まえていた訳だ。芝居の終盤には必要な家系図は見えていた。
今作では沖縄在住の花城清長(おじいの弟茂役)、宮城はるの(孫の智子役)が参加し、音曲が程よく挿入されているのも作品の味。前作と同じく、時折低空飛行の戦闘機の爆音が鳴る。
1972年は本土復帰、1995年は米軍による少女暴行事件を受け、前沖縄規模で基地反対運動が起きた年。前作と同様、東京からこの農家を訪れる男性があり(本土復帰の頃にも現われたあの青年、という事で同一人物であった)、もう一人のキーとなる他者として、前作では事情あって身を寄せていたが居なくなった女性、そして今作では反戦地主である当家に土地売却の提案に来る沖縄防衛局の若い女性職員。「見られる」存在としての当家の者たちが、「見る」(共感し精神的に繋がる)外部の存在として位置し、多様な価値観と生き方、その中に共通のものを見出し合う理想的な関係を示唆する(東京の男性と同じく「この地を去る」のがミソ)。
実演鑑賞
満足度★★★★★
沖縄のサトウキビ農家の一家の物語。反戦地主なので政府の卑劣な嫌がらせがかけられるが、死んだおじいのあとを継いだ和子(新井純)は、契約拒否を貫く。政府の離反策によって、反戦地主の一家は、集落で孤立し、かつてのユイマールは壊れてしまったというセリフもある。そこに、国会議員秘書になった杉浦(高井康行)、防衛施設局沖縄本部の久保直子(稀乃)がきて、沖縄の現実と本土の人間の考えがぶつかる。
この芝居の見どころはこの後にある。9月4日の少女暴行事件が、この一家に身近な問題としておき、見ながら心がワジワジした。和子の「50年間、あきらめていた。せめて契約はしないと思っていた。でも、それだけじゃ足りなかった。アメリカは罪のない少女を踏みつけにして、それで許されると思っている。私はもっと声を挙げなければいけなかった。自分で、自分の言葉で」のセリフが胸に響いた。
さらに10月21日の沖縄県民総決起大会の横断幕、「地位協定の抜本的見直し」の横断幕。今の辺野古の問題も、オール沖縄もここから始まったのだと、30年前が思いだされ、思いがけず涙がこぼれた。前半の杉浦の「いまも日本も沖縄も占領されたまま」という解説ではなかったことだ。
前作「カタブイ、1972」の印象的なセリフもリフレインされる。「本土にいると、沖縄のことは遠くの土砂降りなんです」「でも、あんたは一緒に雨に濡れてくれている。それで十分だ」
重い主題をストレートにぶつけつつ、笑いも多い舞台だった。孫娘役の宮城はるのの歌三線もよかった。沖縄民謡の若いスターらしい。安室奈美恵に熱を上げているという設定もほほえましい。芝居見物のだいご味を満喫した。当日パンフ、資料配布もよかった。とくに、沖縄民謡の歌詞カードのおかげで、劇の内容と歌詞が合致していることが分かり、理解が深まった。総決起集会の晩の、カチャーシーで歌う「唐船ドーイ」の「今日の嬉しさは何に例えられる」の歌詞は、何よりぴったりだった。
1時間50分
全3部作の第二部。第一部「カタブイ、1972」の概要は、以下のサイトで読める。戯曲は『悲劇喜劇』1923年5月号に掲載。第3部「カタブイ、2025」は来年11月、紀伊国屋ホール。楽しみだ。
https://performingarts.jpf.go.jp/J/play/2302/1.html
実演鑑賞
満足度★★★★
中2の少女役の宮城はるのさんが超可愛かった。19歳。歌と三線も一流。沖縄アクターズスクールか?と思ったがこれが初舞台とのこと。凄いな。彼女を見る為だけでも今作に価値はある。キム・テリのデビュー当時みたいな自然な華。ACO(芸術共同体組織)沖縄は何かずっと観たかった劇団で、期待しただけはあった。本物の作品、凄く考えさせられる。
前作『カタブイ、1972』を観ていないので作家の構想を完全に理解しているとは思わないが、今作だけでも凄まじい重量。沖縄問題は素人が簡単に口を出すのは失礼にあたるとの不安感で皆少し距離を置いている議題、下手に口を挟めないジャンル。それは“差別”についての言説に近い。当事者じゃないから関わりたくない、的な。
今作の舞台は1995年、日本にとって激動の年。
55年体制(1955年に成立した自民党と野党との2:1のバランス)が1993年に崩壊。非自民8党の連立政権が誕生、日本新党代表・細川護熙が総理に。その後新生党代表・羽田孜を経て1994年6月に自社さ連立政権として社会党代表・村山富市が総理の座に座った。
1995年1月17日、阪神・淡路大震災が発生。
3月20日、オウム真理教による地下鉄サリン事件が発生。
世紀末的な退廃厭世刹那的な思潮が蔓延し、後に伝説となる『新世紀エヴァンゲリオン』が放送される。
反戦地主=沖縄県内の米軍基地内に土地を持つ地主の中で、1972年の日本復帰の際、「自分の土地は軍事基地としては使わせない」と政府との契約を拒否した地主のこと。
反戦地主の夫が亡くなり、残された妻の新井純さんは娘(馬渡亜樹さん)と孫娘(宮城はるのさん)とサトウキビ畑を耕して暮らしていた。体制側に寝返った花城清長氏や沖縄防衛局の稀乃(きの)さんは軍用地の契約のお願いに再三やって来る。そんな中、23年前に馬渡亜樹さんの恋人であり、沖縄闘争に身を投じた髙井康行氏が故人の弔いとして突然顔を出す。
「片降い(カタブイ)」とは、沖縄県特有の不安定性降水のことで、片側(局地)だけ集中豪雨が起きている状況。そこ以外は全く平穏で綺麗な晴天だったりする。今作では日本国の中で、沖縄県だけがカタブイに遭っていると糾弾の声を上げている。本土の人間としては所詮『対岸の火事』で、「あら大変ね」と他人事。災害と同じで自分が被害を被らないと人間は動かない。「同じ日本人としてこんな状況を何故許せるのか?」と沖縄人は叫ぶ。原発と同じで、自分の身の回りになければ大して気にならない大多数の日本人。だって自分の暮らしには関係ないから。不公平で明らかに間違っている国策を何とか正していかなければならない。だが一体どうやって?
デモや座り込みに果たして意味があるのか?参加者達のエネルギーを発散させるお祭り、「何かをしている」という自己満足に過ぎないのではないか?「手段」が「目的」化してしまう、例のいつもの奴じゃないのか?結局何の「目的」も果たせないままじゃないか。反体制運動に付き物の徒労感。虚しさ。
稀乃さんは日本国憲法、日米安全保障条約、日米地位協定をすらすらすらすら暗誦してみせる。怖ろしい。
花城清長氏は重要な役。この柱が一本通っているので皆安心して演れる。
安室奈美恵ネタは秀逸。彼女のお蔭でおおよその年代感覚が掴める。
ナークニー(宮古島由来とされる民謡で同じメロディーに思い思いの歌詞を乗せるもの)が効果的に使われる。
素晴らしい作品、こういうものこそ沢山の人に御薦めしたい。